2008年08月28日

サザン ファイナルコンサート 周辺の話

サザン ファイナルコンサート 周辺の話

◆8月24日午後10時過ぎ、ホーム上で駅員さんがマイクを使って乗客に絶え間なく案 内する騒々しい声が聞こえてきました。私の自宅は駅のホームに面しているマンションの7階。新横浜の日産スタジアムでサッカーや何かのイベントがあると、ホームは帰路に着く人びとで約1時間はごった返し、いつもは聞こえないアナウンスが窓を閉め切っていても気づくほどノイジーになります。今日は何? わぁ、そうだ、今夜は♪サザン、ファイナルコンサート最終日だった!

サザンが30年の活動を一時休止。この衝撃的なニュースが伝えられてからあっという間にとうとう迎えてしまったこの日。P2フィリピンツアー出発前夜このファイナルコンサートの初日に行ったのは小野さん。彼が大のサザンファンであることは誰もが承知。チケット獲得努力をせずに最初からコンサート行きを諦めていた私は小野さんとは勝負にならない存在ながら、実はやっぱりサザンファン。大晦日コンサートでは横浜アリーナのまわりをうろついてみたりもして、けっこうかわいいモンです。

 サザンの桑田くん(乞うお許し、この呼び方。)と同じ小学校、中学校を彼より10年早く卒業した同級生は、私を含めて皆サザンファン。サザンビーチなんて名前がついていなかったけれど、私たちはいつも砂浜で烏帽子岩を眺めて遊び、ラチエン通りをオシャベリしながら歩いていました。「映画の撮影しているらしい」と誰かが言えば、Pacific Hotelへ行きたくてウズウズ、授業に身が入らなくなったりもしていました。若い頃の思い出は、サザンの唄声を聞くたびによみがえります。鎌学(鎌倉学園)もおなじみ、原さんち(関内・天吉)も行きつけのお店。勝手に親近感を抱いて、同級生たちは集まればサザンの歌を唄ってきました。桑田くんに感謝!の思いいっぱいで、活動休止の報を受け取った私でした。

 東海岸・雄三通りを海岸に向って歩き、加山さん(加山雄三)の有刺鉄線で囲われた家の角を曲がって茅ヶ崎第一中学校へ通いました。その中学校には兄の同級生に尾崎紀代彦(♪また逢う日まで~)がいました。中海岸のHちゃんの家の二件先には平尾昌章のパステルカラーの塀の家がありました。縁あって「遊びにいらっしゃい」言ってもらえたのに、芸能人の家に行っていけませんと母に止められ、行くことを断念したことがありました。そうそう、♪上を向いて歩こう♪を作曲した中村八大さんの家もけっこう近くでした。
 お正月恒例の箱根マラソンで見る沿道の松ノ木が、まだ中学生だった私たちと同じぐらいの高さだった頃の話です。今は昔の話です。

2008年08月15日

フィリピン行きと8月15日

フィリピンへ行きと8月15日
◆フィリピンへ行きます。久しぶりです。現地に駐在しているKさんからメールをもらいました。「日本はたいへん暑いそうですね。フィリピンは雨期で、特に明け方はとても涼しいです。ときどき豪雨で外出が困難になりますが、雨が降らなければ青空も広がり、よい気候です。」酷暑ニッポン脱出を前に、私は今現地の友人たちとの打合せに忙しい毎日です。
 フィリピン行きは草の根援助運動のスタディツアーに同行してのことです。でも、実は私は中抜け。マニラから南へ飛行機で1時間、南カマリネス州、北カマリネス州、アルバイ州の農村や漁村訪問、ホームステイ、村びとたちとの交流、プロジェクト視察などには不参加。一人マニラ首都圏ケソン市でPRRM(フィリピン農村再建運動)の元代表やスタッフたちと過ごします。南カマリネス州には15年前に一人で行ってPRRMのトレーニングセンターに泊まっていくつかのフィールドを見て回ったことがありますが、もうフィールド歩きはシンドイお年頃になりました。今回は「ごめんなさい」でわがままを通します。

◆フィリピンにはもう何度行ったことでしょう。20回を数えてからはもうカウントしていません。フィリピンではいつもバターン半島、コレヒドール島、ルソンの山々などで第二次世界大戦に出会います。スタディツアーでも大学生たちに第二次世界大戦を学んでもらうことをスケジュールに入れています。そんな私ですが3月に見たNHKBSハイビジョンの「証言記録  マニラの市街戦」ではあらてめてショックを受けました。何度も何度も訪ねながらマニラ市内、イントラムロスでここまですさまじい事態が繰り広げられていたことを知らなかったのです。フィリピン市民、日本兵、アメリカ兵、計38人の重い証言、さらにはアメリカ軍のフィルムで私は戦場となったイントラムロスのすさまじい状況を詳しく知りました。ここでは1分間に130発、合計185トンの銃弾が人びとの間で炸裂したのでした。
【マニラ市街戦の死者:12万人】
100,000人(フィリピン人)/16,550人(日本兵)/5,000人(米兵)

証言記録 マニラ市街戦~死者12万 焦土への1か月~
[BShi]3/17(月) 後11:40-翌1:35
太平洋戦争中、フィリピンのマニラで行われた日米の市街戦は12万もの死者を出した。そのうち市民の死者は10万。悲劇はいかに起こったのか、焦土への1か月をたどる。~平成19年度芸術選奨 文部科学大臣新人賞 金本麻理子ディレクター 作品選~

◆今日は8月15日。敗戦記念日です。私はここ20年ほどほぼ毎年この日はSさんと行動を共にしています。渋谷駅前での女性たちによる平和リレートークにもよく通いました(私も車の上でマイクを握ったことがありました)。種々の反戦平和集会への参加はもちろん、朝鮮半島出身の無縁戦没者を祀ったお寺におまいりに行ったこともありました。
 そして今年、私たちははじめて千鳥ヶ淵戦没者墓苑に行きました。海外での戦没者約240万人(軍人軍属戦没者約210万人。一般邦人約30万人。)その方々の遺骨の多くは家族の元に帰ることができなかったなか、復員時の戦友に抱かれて帰国できた遺骨、戦後収集されて帰国された方々の遺骨は124万柱とのこと。一人一人の無念さを思うと目頭が熱くなりました。本土での戦没者約70万人を加えて310万人の戦没者。二度と戦争はイヤだと思って憲法9条をつくったのは当然のことと言えるでしょう。日本以外の国々で命を落とされた方が200万人以上。たくさんのフィリピン人もそのなかに含まれます。
 千鳥ヶ淵墓苑ではちょうどいき合わせた平和フォーラムの慰霊祭に参加させてもらって菊の花を供えました。瑞穂さん(社民党党首)や江橋崇先生(法政大学)と挨拶しました。
 お堀端、九段坂のレストランで二人でゆっくりランチを済ませての帰路、右翼の街宣車が道路を占領して機動隊員、警察官を相手に大騒ぎをしている靖国神社前を通って私たちは半蔵門線の九段下駅に向かいました。朝から繰り広げられたであろうドラマの続きを見た気がしました。
今日は1945年8月15日生まれのNちゃん(私の同級生)の63回目の誕生日です。戦争が終って63年。今日千鳥ヶ淵墓苑に若い人はまったくいませんでした。


2008年08月08日

NHKにひとこと~フィリピンニュースを見たい~

NHKにひとこと~フィリピンニュースを見たい~
◆NHKBS放送における大リーグ中継偏重にちょっと文句。ひとこと申しあげたいと思います。野球大好き人間の私ですが、BS放送で毎日毎日大リーグ中継ばかり放送することには、ちょっとこの編成、どうにかならないのと愚痴がでます。先日ソウルのホテルに滞在した時もチャンネルをNHKに合わせるとBS1で大リーグ、BS2でアニメの毎日。思わず他のものも見たい~と叫びました。
 大リーグで野茂投手が活躍を始める前までは、朝9時代のBS1では毎日アジア各国の前夜のニュース番組を見ることができました。私はそのなかでABS-CBNニュースでフィリピンの状況を把握するのが常でした。政治、経済、社会の動きがほぼリアルタイムで確認できることはフィリピンと関わりを持つ私たちにとってとても意味のあることでした。
 野茂投手の活躍が始まると、日本野球史上特別な日となる彼の登板日には必ず大リーグが中継されるようになりフィリピンニュースが見られなくなりました。夫は野茂投手の結婚式に招待された人ですし、私もその活躍には一喜一憂、精一杯応援していましたから、そんな流れを受容れていました。けれどそのうちイチローが大リーガーになると彼が出場する試合はすべて、そう、野手の彼は毎日出場するので毎日が大リーグ中継日になってしまったのです。それ以来フィリピンニュースが見られなくなりました。フィリピンニュースは今どこに?

◆5日の夜、私は今年の芥川賞受賞作「時が滲む朝」(楊 逸)を時間を忘れて一気に読んでいました。(いい作品でした。その時を昨日のことのように記憶するものにとって胸が熱くなる作品でした。)
その時ふと気づくとテレビはアジア各国のニュース番組を放送していました。
午前3時50分、待望のABS-CBNニュース、馴染みの男性キャスターが少し老けた
顔を出しました。まあまあ、NHKは一体誰がこの時間にこの番組を見ていると思って放送しているのだろうと思いながら見ていると、私にとって今最大の関心事である話題になりました。
この日のトピックは 「フィリピンの医師・看護師事情」。
フィリピンは海外へ出る医師の数がインドに次いで世界第2位であり、看護師は世界第1位であること。医師が海外へ出る理由は経済事情。フィリピンにとどまれば1ヶ月3万2500円の収入であるけれど、アメリカに行けば63~93万円になること。今フィリピンでは国民28,000人に対して医師が1人であることなどが報じられました。医師のなり手そのものが減少していることから最近では医師の受入国が医師の育成を支援することになった((例えばカナダに800人の医師が輸出される場合はフィリピン人医師200名の育成支援の義務を負う)などの情報もありました。FTAで日本でフィリピン看護師受け入れが始まろうとする今、日本人の何人がフィリピンのこの現実に目を向けているでしょうか。
 NHKはワールドニュースをもっともっと私たちに提供してほしい。今の大リーグ中継偏重方針を変更していただけないでしょうか。ついでに、夜7時のニュースのなかで大リーガーの1本のヒットをあんなに大げさに報道しなくてもと思います。球場に足を運んで大学野球を150試合以上見ている、決して野球がキライではない私からの
ひとこと、「フィリピンニュースをみたい~」でした。

2008年08月06日

韓国初訪問+マゴサク日記No2

韓国初訪問
◆先週3泊4日で韓国へ行ってきました。同年齢女性としては決して少ないほうではないと思える40回以上の渡航経験がありながら、私にはなぜかこれまで韓国を訪れる機会がありませんでした。思い起こせば初めてホームステイで受け容れた外国人は韓国人でした。夫は学生時代の初海外以来しばしば韓国を訪ねていました。4月に京都で開催された国際フォーラムではケニア人に「あなたは韓国人?」と聞かれました。韓流ドラマにはまらなかったとはいえ、いろいろな面で関心も高く、何かと縁もあったはずなのに、私が今日まで韓国を訪ねていなかったのは不思議と言えば不思議。

 今回は娘の夫に感謝。彼が成均館大学に招待されて2週間の研修を受講した機会に娘が私を誘ってくれての訪韓となりました。ソウルのみ4日間は普通ならあちらこちらけっこう丁寧にまわれる日程でしたが、マゴサク同伴でしたからほとんど車のなかからの市内見物になりました。でも私にとってはそれで十分でした。韓国はほんとうに近い国だということがわかっただけでもう本当に満足でした。きっと遠くない将来に韓国再訪問が実現するでしょう。

 ソウルはきれいな街でした。政府の政策でこの30年間で新しく作られた江南の街はどこかで見た絵の中の街のようにきれい過ぎて、親しみやすさはありませんでしたが、そこで出会った人たちは皆いい人たちでした。幼な子連れの旅のメリットはそこここで人との交流が持てることです。思いがけずたくさんの人と笑みを交わすことができました。
 私は、なぜ私たちの国はかつてこの半島の人たちの運命をもてあそぶことができたのだろうと考えざるを得ませんでした。家族や友人と楽しく暮らす人たちがその幸せを永久にと願うのはどこの国の人も同じ。幼な子連れの隣国・日本の家族に話かける幼な子連れの韓国人家族との間には何の壁も存在しませんでした。一方が他方の運命をもてあそぶようなことは市民レベルでは考えもつかないこと。平和を願う市民が常にどうしなければならないかを自身にあらためて問い直しました。
ソウル:江北vs江南
http://www.seoulnavi.com/area/area_r_article.html?id=415

マゴサク日記No2
◆ソウル市内にある世界遺産・昌徳宮(チャンドックン)へ行きました。現地到着時間の関係で英語ガイドツアーに参加しましたが、ガイド1人に観光客約100人。娘が咲良を抱っこして参加した我が家族がたちまち落ちこぼれたのは当然。でもそこで待ち受けていたのはマゴサクに関心を寄せてくれたドバイのご一家。18歳で結婚したという父親はまるで子どもたちのお兄様にしかみえない。私たちは超美人の5人姉妹と男の子1人のこの7人家族と親しくオシャベリしながら歩きました。彼らは3週間の韓国旅行をエンジョイ中でした。お母さまは3歳の末の弟とお留守番とのこと。みんなでいつの日かその弟くんと咲良ちゃんのご対面が楽しみという話になりました。ほんと、楽しみ!
 実は咲良はすでにすごい。生後7ヶ月目の5月にはベナン人(アフリカ開発会議で来日したギュスターブさん、タレントのアドゴニーさん)とアルジェリア人(同 ラビアさん)に、8ヶ月目にはインド人(ニューホープのローズさんとシャクントラ)に、そして9ヶ月目の今回は韓国人、UAE・ドバイ人に抱っこをしてもらったり、話しかけてもらったり、いっしょに写真を撮ったりです。生まれた時にはフランス人とデンマーク人からもプレゼントが届きました。私はもうすぐフィリピンに行きます。そこには「娘は元気?どうしている?」と聞いてくれる友達がたくさんいます。マゴサクの誕生はそんなみんなに祝ってもらえるに違いありません。彼女は本当に幸せです。国境のない世界でたくさんの人と生きていくことになるでしょう。
昌徳宮(チャンドックン)ツアー
http://www.seoulnavi.com/miru/miru.php?id=2

◆ソウルでハングル文字入り布製絵本を買いました。1ページがB4程度の大きな本です。牛が牧場で遊んでいたり、森でおサルが木登りしたりしています。ハングル文字はいつ読めるようになるかわかりませんが、絵本はいつまでも彼女の宝物であり続けるでしょう。
絵本はもう一冊。私が私のために買いました。花の好きな小学校の先生が主人公のこの絵本、タイトルもわからなければストーリーもわかりません。でも素敵な絵が魅力です。誰かに読んでもらえる日が待ち遠しいです。

2008年07月26日

マゴサク日記 No1

◆過日朝日新聞の読者投稿欄に、最近の日本社会に溢れるコンビニなどの四字語についての感想が載っていました。投稿者は韓国からの留学生で、それをとても楽しいことと言っていました。
本当にこんなことまで?と唸るほどの氾濫ぶり。キムタクから、オグシオ(バトミントン:小椋・潮田組)、コンカマ(セーリング:近藤・鎌田組)、 イケクミ(走り幅跳び:池田久美子)。言い易さ記憶され易さが日本人好みで流行ってきたのでしょうか。
で、私も使ってみます。「マゴサク」 はて、さて、何、それ?
こ・た・え=孫の咲良(さくら)ちゃん。略してマゴサク。生後9ヶ月になる正真正銘、私のマゴです。これから時々登場します。どうぞよろしく。

さて、明日はマゴサク初海外。私もいっしょです。どんな旅になるでしょうか。

2008年07月25日

私の軽井沢(ゆり園から坂本竜馬まで)

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◆三連休の最終日、忙中閑をつくり小学校時代の友人と二人で軽井沢One Day Tripを敢行。プリンスゆり園の散策と脇田和(かず)美術館で「生誕100年展」を鑑賞。名物のジャムとドレッシングと胡桃を買って帰りました。軽井沢は22℃、避暑客がそろそろ滞在をはじめたところにOne DayTripは正直少々肩身狭うございましたが、分相応というところで満足な一日でした。

◆ゆり園の開園期間は7月19日~8月31日。私が昨年夫とここを訪ねたのは8月半ば過ぎのこと。花の盛りはすでに過ぎ、行く夏に別れを惜しむキレイな花もややくたびれ気味でした。対照的に今年の花は今からで一花二花が咲き初めたところ。人生もゆりもやっぱり「これからが素敵」を再確認。
賞金目当てで応募するフォトコンテスト用写真選びに目下難儀しています。

◆脇田和は戦時中私の故郷の町に疎開をしていたことがあったので小さい時からその名前を聞いていました。そのせいでずっと親近感を持っていましたが、大人になってからの私はそののびやかなオリジナリティあふれるやさしい作風に魅せられていました。この日私は静かな館内の中央に置かれたソファーで作品に見守られながらしばしまどろんでしまいました。
目覚めるとあわただしかった毎日がすーっと遠くに流れて消えていました。

◆ところで私には聞いたら誰もが羨むに違いない軽井沢の思い出があり ます。ここに突然「坂本竜馬」登場です。
今から40年も昔のこと、大学4年生だった私は一夏を坂本直道という方とその人の軽井沢の別荘で過ごしました。3000坪の落葉松林のなかに別荘はありました。その人坂本直道氏とは誰あろう竜馬の唯一の曾孫!直道氏の父直寛氏が竜馬の甥でした。直道氏の田園調布のご自宅には私たちが何度も目にしている竜馬さんのあの写真が飾られていました。

直道氏は明治25年生まれ。東大法学部を出て満鉄欧州事務所長(在パリ)をつとめました。欧米の事情に精通していたがゆえに日本の開戦に反対し、昭和15年に帰国すると翌16年には満鉄を辞職。この戦争に日本は絶対負けると言って東京を離れ軽井沢暮らしを始めました。

敗戦後はパリで収集した絵画を売って得た資金を自由民主党の設立のために提供しました。自由民主党は今ではすっかりその面影を残していませんが、その時の坂本氏は「自由」と「民主主義」の大事さを誰よりも知っていて惜しげもなく私財を投じました。

私は別荘で一ヶ月間直道氏の食事を作るだけの仕事をもらってあとは自由に過ごしました。奥様は「パリからの帰路スエズ運河を石炭の船で渡った時の暑さを思えば東京の暑さはがまんできるわ。軽井沢に行くのは面倒なのでお願いね」と私に言いました。私にその役が回ってきたのは当時のクラスメートの一人が坂本直道著「激動するアジアの中の日本ー日本はどうあるべきかー」を読んで感激し坂本宅に出入りするようになっていたからです。

※奥様からいただいたレースのハンカチは今でも私の宝物です。そのハン カチはロシア革命からパリに逃れてきたロシア貴族の女性たちが持っていたものです。

今竜馬さんの血を引く方はただ一人、坂本直道氏のお嬢様だけです。時代の影響でご結婚されませんでした。80歳を過ぎた今もご健在で軽井沢の別荘(昨年の夏の写真)に住んでいらっしゃいます。

2008年07月15日

今週は大忙し

◆この20年間、私は草の根援助運動を中心に活動してきました。その前の10年間は消費生活協同組合活動が中心でした。この30年間は同時に福祉や平和、環境問題にも熱心に取り組んできました。他人からは絶えず忙しい人と思われ、自身「忙しい、忙しい」が口癖の毎日でした。心を忘れて忙しいのは褒められたことじゃないとわかってはいましたが、ほんとに忙しく過ごしていました。
 そんな私の毎日が、最近少しづつ変化しています。2年前ぐらいまでは、午前、午後、夜と一日3ヵ所での会議も、1週間に5日の夜の会議もこなしていました。それが今はもうだめです。直前までその気でいても、瞬時にやめようと決心することが容易になってサッとキャンセルすることがけっこう当たり前になってきました。もちろん責任放棄ではなく、私の出席の有無が大勢に影響がない場合に限ってのキャンセルです。それは、自分や草の根にとっての勉強だったり、大勢の人が集まることで社会にアピールできることだったり。参加する意味があっても私が出なければ始まらないことでなければ、もう無理はしないーとなりました。半端じゃない経費を100%自己負担しながらよくここまで完全無報酬、ボランティアワークで来たものだと思います。だれに強制されたわけでなく、ただひたすら自分で自分に♪ファイト!(大好きな中島みゆきの歌)。よくがんばってきたものです。

◆でも、今週は正真正銘「大忙し」。私が行かなければ始まらないことが続きます。昨日14日月曜日の夜は県民活動サポートセンターで「第11回 第5期NGOかながわ国際協力会議」(※)がありました。 私は第3期に続いて今期も委員長。知事への提言書提出日が10月17日に決まってそろそろまとめに入りました。ほぼ完成レベルの提言もあれば、この期に及んでトホホ・・状態のものも。あれもこれも宿題にして10名の委員が総力をあげて取組み、8月末の臨時会議に持ち寄ることにしました。私もたくさんの宿題をかかえました。集中力をもってがんばろう!と本気で決心して帰宅。そう、委員長の責任は重大なのです。会議の仕切りもけっこうシンドイ。
(※)1998年発足。1期2年。神奈川県の国際施策について県知事へ提言。「外国籍県民神奈川会議」と同時開催。事務局:県国際課

◆明日16日(水)午後は、自由が丘産能短大で講義です。140名の女子大生を前に「地域社会とボランティア」をテーマに話をします。講義はボランティア人生そのもののを送ってきた私にふさわしいと言えるかもしれません。メインはモチロン国際協力NGOでのボランティア活動紹介。前提として国際協力NGOとはという点をパワーポイントを使って丁寧に説明します。そして草の根にも来てねと言いたいと思います。この短大に行くのは初めてです。いつも東横線の車内で大学の広告を見ていましたから、なんか嬉しい。運営委員の中島くんが同行予定です。
※本日は一日中在宅で講義準備。暑い日だったので何度もベランダへでての草花の水やり。いずれベランダ報告をします。数少ない私の得意分野です。

◆まだ、申し込みをしていないのですが、17日(木)は多分朝から夕方まで千駄ヶ谷の日本青年館。フィリピンから来日するフレビエール元保健相・上院議員でPRRMのスタッフだった医師ジョンDのパパの話を聞きに行きたいと<今は>考えています。主催の日比フォーラムへは誘われながらとうとう入らなかったのでメンバーにお会いするのは申し訳ない気がします。でも、だから、行った方がいいともいえます。
夜はP2運営委員会です。考えると今から疲れそうです。

◆19日(土)夜は法政大学へ行きます。GG研(グローバルガバナンス研究会)(※)です。私は報告者に決まっています。お題は「市民社会が見たTICAD」。明日の夜と明後日一日がパワーポイントを完成させるために用意された時間です。間に合いそうもなくてドキドキ。勉学モード絶えて久しく、エンジンのかけ直しから始めます。でもTICAD総括は自分のためでもありいい機会だと思っています。みんなのコメントはこわいけれど現場主義を貫いてみようと思っています。
※グローバルガバナンス研究会:主宰は後藤一美法政大学法学部教授。メンバーは大学院で後藤先生にご指導いただいた面々。現役の博士課程在籍者もいれば、私の同期生「3人組」も。政府の仕事をしている人、地方自治体職員、財団職員、そしてNGO。@北京、@ドイツ、@長崎(頻繁にケニア)も。時々学部生も参加。二人のメンバーの博士論文完成に向けての報告を中心にしながらも、それぞれの研究分野、職業関連の報告あり。私はここで学問の世界の入口に立つおもしろさを味わっています。

◆20日(日)は来客を迎えます。何人が見えるかは不明。P2ユース日大(@三島)支部発足の相談で少なくとも日大生の二人の女子学生は確実。あとはどうかな?ランチメニューは何?そこから考えるのが私のお役目。NGO兼食堂のママってところです。

◆休みたくなったのはトシのせい?いえ、やっぱり疲れたのしょう。  
思い起こせは1年前。5月のリフォーム、6月の夫の転居(自宅への出戻り)。8月の娘一家の転居(娘が身重だったので手伝いました)。そして産前産後2ヶ月間の娘の世話+新生児の世話(1ヶ月間)。加えて10月からは週1で県立保健福祉大学での講義が加わりました。やっぱりがんばりすぎだったかもしれません。
今もまだアフリカ人(ベナン人)1ヶ月間のホームステイ後遺症が残っても仕方がありませんね。
さあ、今週はがんばるぞ!まずは明日、がんばります。

2008年07月07日

G8サミットとNGO

◆ブログ初心者の私にとって小野さんは神様?その更新振りはどう考えても神業としか思えません。中味が伴なう文章をどうしてさささっとこうも手早く書き上げることが
できるのか不思議でなりません。彼が誰よりも忙しい人だと知っているからなおさらsそう思います。それを人は「才能」というのでしょうね。私は文章を書くのがそれほど早いほうではありません。それ故、タイムリーに意見表明ができそうにありません。ま、私は私のペースで。十人十色で綾なす色がP2ブログの魅力ということでー。

◆G8サミットとNGOについての私見。
草の根援助運動は昨年1月の発足時から「2008G8サミットNGOフォーラム」に参加してきました。このフォーラムは発足にあたってG8サミットにNo!をいうのではなく、G8首脳の話し合いに影響力を持つ政策提言を活動目的にすることを時間をかけて確認しました。P2もG8の存在の正当性に何の疑いも持たないわけではありませんが、国際社会におけるG8の影響力を無視できない現実は否定できないということでNGOフォーラムへの参加を決めました。NGOフォーラムは最終的には141団体(ほとんどが東京の団体)が参加、今日現在北海道でがんばっています。
 ではNGOはどうがんばり、どのような成果を得つつあるのでしょうか。本当のところはモチロン時を経なければ明らかになりません。当然今は周辺情報にもとづいての私の考えの範囲内ということになります。

実は私は、サミットでのNGOの役割に大きな期待を抱き、早くから北海道行きを決めていました。けれど1ヶ月前に終了したTICAD Ⅳ(第4回アフリカ開発会議)に関わった経験から、その大きな期待に果たして私自身がどのような役割を果たせるのだろうかに?がついてしまい、参加意欲を喪失、直前になって北海道行きをとりやめていましました。今はとりやめてかえってよかったと思っています。なぜなら、横浜(東京)からみたサミットにおけるNGOの存在の希薄さを冷静に把握することができたからです。東京にいると、北海道でがんばっている割には関心を持ってもらえないという現実の厳しさを受け止めざるを得ません。みんながみんな北海道に行っていたら気がつかないままだったかもしれないこのことをいつかどこかで明らかにして、NGO活動の今後に生かさなければと思っています。

今回のG8サミットでのNGOの政策提言には二つの手段がとられました。ひとつは留寿都の国際メディアセンター(IMC)での「記者会見」。もうひとつは札幌での「市民サミット」の開催。後者は「G8サミット市民フォーラム北海道」との共催。北海道で中心的な役割を担ってきたKさんとのコネクションで私もここへはカンパを送っていたので私にはここからの情報も届いていました。
IMCが置かれた留寿都は札幌から2時間。入場には事前に外務省に申請して手に入れたパスが必要。ということでここでの「記者会見」に参加するNGOはきわめて一部の人に限られました。フォーラムの代表、副代表、環境、人権・平和、貧困・開発の3ユニットの代表、これまでにNGOフォーラムのポジションパーパー作成(文章化)に関わった提言チームメンバーたちです。彼らはG8首脳から出される見解に対してタイムリーに記者会見してペーパーを配りモノを言い、メディアを通してG8の考えに影響力を持とうと努力したと言うことです。ちなみに内外4000人ものジャーナリストが仕事をするメディアセンター内に今回サミット史上はじめてNGOはワークスペース&記者会見場を確保しました。現地からの情報によればこのことで記者会見にはいつも多数のメディアが集まってくれたと言うことです。
 ところがところがそのNGOの記者会見がテレビの映像で見られることはまったくなく、新聞にもその見解が多少関心ある人が読む政治欄に紹介されることはあっても誰もが気づく場所に写真入り記事で載ることはまずありませんでした。それでもG8シェルパをはじめとする事務方に届けばいいといえなくもないのですが、それはどうだったのでしょう、現地から報告される外務省審議官のブリーフィングからは期待するほうが無理?の感が否めませんでした。
ただ、これすらなかったらもっとひどいものなっていたかもしれないと思うことはできるのですが。IMCでがんばった皆さんはさぞお疲れでしょう。札幌は遠く、ともすれば自分たちの仕事がたくさんのNGOの総意だとの認識を持ちにくかったのでは?と推測します。私が彼らの立場だったらそう思っただろうと思います。

そして札幌の市民サミット。政策は直接的な提言活動と世論が動かしていくものなのです。NGOフォーラムは物理的分断を超えてこの両方でがんばりました。
私は昨日のクロージング・シンポジウムの模様をOur Planet TVのインターネット中継でちょっとだけ見ました。(音が小さくて聞き取れなかった。中継終了時の音楽は大きかった)今朝の朝日新聞にはこの模様を見出しを入れて8行2段分の記事として掲載していました。参加者は約200名の市民活動家とありました。この市民サミットの一連の行動がもっとしっかり報道されれば、G8サミットを通して知る国際社会の現状に対する人びとの関心を促せたと思うのですがそうはなりませんでした。沖縄サミットの時私が沖縄で手にした「琉球新報」と「沖縄タイムス」には債務帳消し国際キャンペーンのデモやシンポジウム、嘉手納基地を取り囲む2万人の人間の鎖、アメリカ政府への基地問題の訴えなどが熱く熱く報道されていました。そのことから推測すれば北海道ではメディアも市民の動きに大きな時間と紙面を割いたと考えられますが東京はそうなってはいませんでした。「G8にNo!と叫ぶ150名のNGOのデモ」のニュースがまるでNGOのすべてととられれかねないような報道でした。朝、夕の民放のワイドショウやニュース番組では首脳が食べた食事の内容や厨房やシェフのコメントが、ファーストレディのファッション採点が報道されてもNGOによる市民サミットの模様が報道されることはありませんでした。

そんななか、気候変動とアフリカはよく取り上げられていたと思います。特にアフリカは私が考えていた以上でした。TICAD-NGOネットワークがアフリカから3名のNGOを呼んで発言の場を設定できたことは意味があったと思います。
私の家に1ヶ月近くホームステイしたギュスターブ・アサーさん(ベナン)も再来日してがんばりました。

草の根援助運動はODA改革ネットに参加して活動してきましたが、今回このふたつの国際会議でその出番を得ませんでした。少し落ち着いたらODA改革ネットの今後についての話し合いをしようという声が出ています。その時までに私ももう一度、NGOのアドボカシー活動についての考えをまとめなければと思っています。
(ブログ初心者のQ:今回はこの文章を書いている途中でInternet Explorerを開いては自分の書きかけの文章をすべて喪失ということを二度経験しました。これってどういうことですか?)

 


2008年07月06日

ブログ初心者+続「たちかぜ裁判」

◆ブログ初心者ということで、早々に失敗してしまいました。実は「7月2日に『たちかぜ裁判』の傍聴に行ってきました。」とたった1行だけ記載して閉じたのは私の本意ではありませんでした。思うこともろもろ書き始めようとしたところで、ちょっと中断のつもりが「公開」になってしまいました。初心者ゆえのケアレスミスです。
 私はいつもパソコン時代があと10年早く訪れていたならよかったのにーと思っています。私たちの世代にとってパソコンの到来は少々遅過ぎました。パソコンが登場した時、私たちは新しいことに即座に対応する理解力・習得力を失いつつあったのです。自分から学んでみようとする意欲も欠けつつあったために、それからの日々は悪戦苦闘の連続。ブログ更新のミスも至極当然のことだったと言えるでしょう。
草の根援助運動にMLが導入されたのは1998年3月。そう、ちょうど10年前!なんです。これって結構時代に先駆けていたのです。P2に小野さんや楠美さん、渡辺さんがいてくれたので実現した話でしたが、MLはその後P2にとって命綱的役割を果たしてくれました。とにかくみんな忙しくてなかなか会議がもてないのにここまでそれなりに活動が継続できたのはMLのおかげでした。意思疎通が図れ、活動は活性化しました。私はトシ不相応にがんばってここまできました。ただ時々、あと10年早かったら・・・と愚痴がでます。本当はもっとパソコンを使いこなしたいのです。ブログスタート。これはおもいがけない新しいチャレンジです。

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2008年07月04日

たちかぜ裁判


◆7月2日、私は横浜地裁に「たちかぜ裁判」の傍聴に行きました。

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【ごまめのつぶやきNo45】

原告:海上自衛隊護衛艦「たちかぜ」所属 一等海士Aさんの両親の裁判

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2004年10月27日、京急立会川駅構内で21歳の青年Aさんが電車に飛び込み自殺した。Aさんは海上自衛隊横須賀基地所属の一等海士だった。自殺の原因は自衛隊内部でのいじめだった。彼の上司、元二等海士S(35)は日ごろから若い隊員たちをエアガンなどで撃ちまくり、アダルトビデオを高額で買わせ、手製ナイフをちらつかせる恐怖の存在として知られていたという。「たちかぜ」という海の上の閉ざされた空間の中で恐怖は倍増されたことだろう。若い隊員にとってそれは耐え難いものであったに違いない。ちなみにBB弾というプラスティック弾はアルミ缶をも貫通するほどの威力があった。「たちかぜ」内でのこの常軌を逸した暴行・恐喝事件について、一部の幹部は知っていたにもかかわらずまともな対処をしてこなかったという。そのことがAさんの自殺を生んだことは否めない。
 Aさんの両親は1年の準備期間を経た今年(2006年)4月5日、いじめた上官Sとともに国の責任を問うために損害賠償を求める民事裁判を起こした。Sに関してはすでに刑事裁判で、暴行罪などにより懲役2年6ヶ月、執行猶予4年の有罪判決が確定している。 しかしこの刑事裁判では、すでに死亡したAさんは法廷で証言できないということで「被害者」にはなれなかった。刑は同じような被害を受けていたことを証言できた3人の隊員への罪を問われて言い渡されたものだった。このとき検事、裁判官はSに対してAさんの自殺の責任を追及したが本人は否定した。
 4月5日の第1回公判で父親は何度も言葉を詰まらせながら息子に詫び、自衛隊に対する失望を述べた。息子に自衛隊入りを勧めたのはほかならぬ父親だった。父親は駐屯地で目にした隊員のキビキビした態度に好感を持ったこと、カナダに語学留学をするほど英語好きだった息子が英語を使える機会を得られそうだと考えたことから自衛隊こそ息子にふさわしい職場だと思ったと語った。今は後悔の念でいっぱいだと語った。

 2001年1月、護衛艦「うみぎり」(横須賀)ではいじめを苦にした隊員(22)による放火事件が起きた。そして彼が逮捕された後も、第2、第3の放火事件が続いた。次々と起こる事件は多くの隊員が陰湿ないじめと激しい暴力を受けている実態を物語る。さらには潜水艦隊での一連の大麻吸引・栽培事件。自衛隊員個々の資質だけではない他の原因、私たちは自衛隊の構造的な問題を見逃すわけにはいかない。 1993年から2004年の10年間で自衛官の自殺者数は倍増した。2004年は94人にも及んでいる。イラクの復興支援に携わって帰国した自衛官のなかに多くの自殺者が出ているという話もある。「たちかぜ」裁判は始まったばかり。ぜひ注目してください。(2006.