フィリピン行きと8月15日
フィリピンへ行きと8月15日
◆フィリピンへ行きます。久しぶりです。現地に駐在しているKさんからメールをもらいました。「日本はたいへん暑いそうですね。フィリピンは雨期で、特に明け方はとても涼しいです。ときどき豪雨で外出が困難になりますが、雨が降らなければ青空も広がり、よい気候です。」酷暑ニッポン脱出を前に、私は今現地の友人たちとの打合せに忙しい毎日です。
フィリピン行きは草の根援助運動のスタディツアーに同行してのことです。でも、実は私は中抜け。マニラから南へ飛行機で1時間、南カマリネス州、北カマリネス州、アルバイ州の農村や漁村訪問、ホームステイ、村びとたちとの交流、プロジェクト視察などには不参加。一人マニラ首都圏ケソン市でPRRM(フィリピン農村再建運動)の元代表やスタッフたちと過ごします。南カマリネス州には15年前に一人で行ってPRRMのトレーニングセンターに泊まっていくつかのフィールドを見て回ったことがありますが、もうフィールド歩きはシンドイお年頃になりました。今回は「ごめんなさい」でわがままを通します。
◆フィリピンにはもう何度行ったことでしょう。20回を数えてからはもうカウントしていません。フィリピンではいつもバターン半島、コレヒドール島、ルソンの山々などで第二次世界大戦に出会います。スタディツアーでも大学生たちに第二次世界大戦を学んでもらうことをスケジュールに入れています。そんな私ですが3月に見たNHKBSハイビジョンの「証言記録 マニラの市街戦」ではあらてめてショックを受けました。何度も何度も訪ねながらマニラ市内、イントラムロスでここまですさまじい事態が繰り広げられていたことを知らなかったのです。フィリピン市民、日本兵、アメリカ兵、計38人の重い証言、さらにはアメリカ軍のフィルムで私は戦場となったイントラムロスのすさまじい状況を詳しく知りました。ここでは1分間に130発、合計185トンの銃弾が人びとの間で炸裂したのでした。
【マニラ市街戦の死者:12万人】
100,000人(フィリピン人)/16,550人(日本兵)/5,000人(米兵)
証言記録 マニラ市街戦~死者12万 焦土への1か月~
[BShi]3/17(月) 後11:40-翌1:35
太平洋戦争中、フィリピンのマニラで行われた日米の市街戦は12万もの死者を出した。そのうち市民の死者は10万。悲劇はいかに起こったのか、焦土への1か月をたどる。~平成19年度芸術選奨 文部科学大臣新人賞 金本麻理子ディレクター 作品選~
◆今日は8月15日。敗戦記念日です。私はここ20年ほどほぼ毎年この日はSさんと行動を共にしています。渋谷駅前での女性たちによる平和リレートークにもよく通いました(私も車の上でマイクを握ったことがありました)。種々の反戦平和集会への参加はもちろん、朝鮮半島出身の無縁戦没者を祀ったお寺におまいりに行ったこともありました。
そして今年、私たちははじめて千鳥ヶ淵戦没者墓苑に行きました。海外での戦没者約240万人(軍人軍属戦没者約210万人。一般邦人約30万人。)その方々の遺骨の多くは家族の元に帰ることができなかったなか、復員時の戦友に抱かれて帰国できた遺骨、戦後収集されて帰国された方々の遺骨は124万柱とのこと。一人一人の無念さを思うと目頭が熱くなりました。本土での戦没者約70万人を加えて310万人の戦没者。二度と戦争はイヤだと思って憲法9条をつくったのは当然のことと言えるでしょう。日本以外の国々で命を落とされた方が200万人以上。たくさんのフィリピン人もそのなかに含まれます。
千鳥ヶ淵墓苑ではちょうどいき合わせた平和フォーラムの慰霊祭に参加させてもらって菊の花を供えました。瑞穂さん(社民党党首)や江橋崇先生(法政大学)と挨拶しました。
お堀端、九段坂のレストランで二人でゆっくりランチを済ませての帰路、右翼の街宣車が道路を占領して機動隊員、警察官を相手に大騒ぎをしている靖国神社前を通って私たちは半蔵門線の九段下駅に向かいました。朝から繰り広げられたであろうドラマの続きを見た気がしました。
今日は1945年8月15日生まれのNちゃん(私の同級生)の63回目の誕生日です。戦争が終って63年。今日千鳥ヶ淵墓苑に若い人はまったくいませんでした。