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2010年02月23日

マニラ湾プロジェクトについての論文執筆中

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論文を書いている。
 
 舞台はマニラ湾沿岸。80年代後半からの、NGOと現地の漁民組織の動きなどを追っている。

 最終的には、それぞれのプロジェクトを調べて、NGOがやってきた(やろうとしてきた)参加型プロジェクトの中身と意味を精査しよう、ということなのだけれど、今のところはその前段階。

 調べるといろいろな人がいろいろなことを書いているし、現地NGOの資料もいろいろあるし、それなりに漁師や組織リーダーたちにもインタビューしてきているので、資料には事欠かない。

 これをやっていて一番面白いのは、実は90年代半ばから関わりがあったのに、いろいろなことが分かっていなかった、ということ。そしてそれが、今になっていろいろ分かってくること。

 プロジェクトを始める前にすでに、マニラ湾沿岸コミュニティは訪れているし、1998年には、わが草の根援助運動としても関わり始め、2000年代前半には、それなりのプロジェクトを展開した。
 その全体の中での位置づけが、こうして調べていて、あ、あれってこのことだったのか、という風に見えてくる。
 経験が資料の中でつながってくる。たとえば古い映画を見ていたら「あれ??こんなところに我が家が映ってる!」みたいな感じ。

 話が飛んでるけれど、これは植木等の64年の映画『日本一のホラ吹き男』の話で、最近テレビで見ていたら、なんとラストシーンで向こうの方(といってもずっと遠く)に実家が映っていたのだ。

 それともう一つ、ようやく分かってきて面白いこと。

 たくさん資料を集めたので、一時は多すぎて途方に暮れた。でも、読み込んでいくと、書いてあることはかなり重なっている。それをたどっていくと、なあんだ、元の資料はそれほど多くない、ということが分かってきた。
 そうなってくると、あ、ここでもこんなこと書いてるけど、元ネタはあれだよな、という見当がついてきて、なんだかそのあたりが見えてきた感じがする。

 思い出してみると、古くは(すごく古い)受験勉強がそうだった。断片的な知識がつながりはじめると、面白くてしょうがなくなる。全体像が見えてくるまでには、どうしてもその前に一定のモガモガあがく時間が必要なんだろうな。

 空手では、未だにモガモガしているような気がしますが。

 ちなみに、先週土曜日の練習で、回し蹴りが相手と宙で重なって、ねんざ。
 左足をテーピングして、足を引きずって歩いています・・・。

2009年03月16日

人は給付があるという理由だけで働かないことを選択することはない

 
 前回の続き。
 
 ベーシック・インカムを考えるときに必ず問題になるのが、「何もしていないのにお金が支払われるのならば、人は決して働かないだろう」という推測だ。

 そうなのだろうか。

 いい車に乗っていながら給食費を払わない保護者、というのが話題になることがある。
 同じような話では、いい生活をしながら生活保護をもらっている人の存在というのもある。

 実際のところ、そんな人たちはどのくらいいるのだろう。

 文科省の調査によれば、給食費を払っていない生徒は、全国の小学校で0.8%、中学校で1.3%だということだ。

http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/19/01/07012514/002.pdf
 
 その理由は、「保護者の責任感や規範意識(が低いこと)」が約6割、経済的な問題が約3割、とされている。つまり、いい加減なので給食費を払わないという保護者がいる家庭は、それぞれ小学校全生徒の0.5%程度、0.9%程度、ということになる。

 このままだとまだ多いように見えるかもしれない。

 しかし、この理由が学校側から見たものであることに、注意が必要だ。
 教員としての自分自身の実感では、保護者の経済的な問題というのはそう簡単に分かるものではない。
 社会政策を逆手にとる不正行為は、実際にはごくごく少数の人たちの話だ、と考えるべきだ。


 にも関わらず、社会政策を不正に使ったり、怠惰でいい加減だったりする人の存在というのは、人々の意識にかなり大きく刻み込まれている。

 これは歴史的な偏見といっていいものだ。

 「自己依存の感覚が、労働者階級のあいだに広く普及していた。それゆえ、教区の救済は不名誉で汚らわしいものと思われていた。また、これを申請することは、たとえ高齢であったとしても、怠惰であったり、思慮がなかったり、あるいは極度の不幸であったりすることを認めるに等しかった。」
 
 1818年のイギリスで、救貧法が登場したころの話を書いたものだという(『貧困の概念』、ポール・スピッカー、2008、圷洋一監訳、生活書院)。

 以来200年、そうした「偏見」は根強い。

 スピッカーによれば、チャールズ・マレーは著書『衰退』で、次の主旨のことを述べているという。

 「何もしていないのにお金が支払われるなら、人は決して働かないだろう」

 そして、次のように言う。

1 人は政府の誘因に反応する。飴と鞭がうまくいく。
2 人はもともと勤勉でも道徳的でもない。制裁がなければ、人は労働を避け、不道徳になるだろう。
3 人は自分の行為に責任を負わねばならない・・・。

 しかしこれは誤解だ、とスピッカーは書いている。

 「労働から得られるものには、(お金の)他にも身分、活動、社交、目的意識、自己実現能力などがある。」
 「そうしたものが得られないのであれば、働かないことが選択されるだろう。人は給付があるという理由だけで働かないことを選択するという考え方に、経済理論上の根拠は一切ないのである。」
 
 スピッカーは生活保護のような社会政策について語っているのだが、ベーシック・インカムにも当てはまる話だ。

 人々が当然のごとく生活が出来ること、をまず分かち合う。

 ベーシック・インカムは、充分論議に値するアイデアだと思う。

2009年03月12日

論文はなんのために書くか

 論文を書くときに、しばしば陥る自問自答。
 これ、一体なんのために書いているのだろう?
 
 それがとてもクリアになるのが、『社会科学のリサーチ・デザイン』G・キング他/真渕勝監訳、勁草書房 です。

 日曜日の自主ゼミでAさんに紹介され、早速購入。
 論文の構成は、どうでなくてはならないか。
 社会科学が「科学」であるというのは、つまりどういうことなのか。

 修論のタイトルを決めるときにH先生にいろいろな言い方で説明されていたことが、ようやく分かってきた感じです。


 「社会科学の研究プロジェクトは、現実の世界において「重要な」問いを立てるべきである。」

 「現実の世界の一側面を実証的・科学的に説明する学界全体の能力を高めることによって、特定の学問研究の発展に具体的な貢献をしなければならない。」


 書き抜くとやたら大上段だけれど、そうではなくて、これこそが、なぜ論文を書くのか、のひとつの答(そして出発点)なのですね。

 自分はこれだけ知っています、などと書いても、それは報告書(レポート)ではあるけれど、論文ではない。論文として書く以上、それは「社会科学」であって、追試可能な正確なものでなくてはならない・・・。

 第3章あたりはちょっとむずかしいけれど、これから博論書くぞ-、と気負っている身には、とても有用な本のようです。まだ読み終わってはいないのですがね。