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2010年04月05日

朝鮮初級学校・入学おめでとう応援隊

 朝鮮学校に通う子どもたちに対する襲撃事件が続いていた2003年、友人である地球の木の当時の代表Yさんや、現K-DECの事務局長Kさんらが始めたのが、この「入学おめでとう隊」です。
 
 http://bit.ly/aTTGTp
 
 僕は一度も行ったことなかったのだけれど、今回初めて、横浜の初級学校応援隊に娘と一緒に参加しました。
 
 予想通り、年齢は高め。娘が唯一の十代、二十代の人が多分一人、あとはみなある程度の年齢の人たち。それでも20人近くがオレンジ色ののぼりを立てて子どもたちを迎える、とてもいい感じです。
 おめでとう、と声をかける、ほとんどそれだけの活動なのですが、思った以上に学校の方々や保護者の方たちに歓迎されました
 
 敷地内では、制服を着た在校生の子たちが、みんな元気に校内を掃除しながら、こんにちは、と堂々とした挨拶。
 
 そうした中で、小さな子を抱いて玄関前に現れた若いオモニ(お母さん)は、僕らを見て涙ぐんでいます。
 近くにいたオモニ会の前会長さんが、「こんな風に迎えていただいて、と感激しているんですよ」と教えてくれました。

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 やがて入場してきた、緊張した、でも体いっぱいにやる気と元気をみなぎらせた1年生らと、それに劣らず誇りと緊張をみせる保護者たち。
 数えてみたら、新入生全員、両親とも参加しています。
 
 それを受け入れる側の学校もとても立派。凛とした、しかし暖かい感じの先生たち。在校生も先生方も、一人一人を心から祝福し、仲間として受け入れる感じが溢れています。
 暖かく、力強く。制度としてある「学校」ではなく、自分たちで一から作り上げている学校の、原点を見た感じがします。
 
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 粛々と、かつ生き生きと、式は進みます。新入生たちは明るくきれいな正面壇上にひとりづつ並ばされ、晴れがましくも相当に緊張する場面。
 一人の子はほとんど最後までお母さんから離れられずに泣きっぱなしでしたが、それはそれ、という感じで決して無理強いはされず、抱きついたままで教科書を受け取ったりというセレモニーをこなしていました。
 
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 最後は記念撮影。保護者たちとの撮影はもちろんですが、学校側の配慮で、新入生たちと、僕ら応援隊が一緒に写真を撮って終了しました。
 
 
 終了後の理事長やオモニ会の方々との懇談会では、娘が「『GO』で読んだ朝鮮学校はどちらかといえば怖い感じだったけれど、とても明るくて楽しい学校だと分かってよかった、子どもたちもかわいかったし、来年もまた参加したい」と挨拶して喝采を受けました。
 
 理事長からは、高校無償化問題について語られましたが、声高に権利を主張するのではなくて、とても困っている、と穏やかに語られました。
 すでに日系4世、5世のこの国で生きていく子どもたちが、朝鮮学校に来ると支援が受けられないというのは、日本の国力を削ぐことにもなりかねない。学校の中身が分からないと言われるが、朝鮮学校はいつでもオープンにしているし、ぜひ中身を見てほしい、ととても当然のお話。
 
 草の根援助運動でも声明を出しましたが、世界的に見てもあからさまなこんな人種差別政策がまかり通るのは、許せないことです。 
 ところで、オモニ会の前会長さんが言っておられたことがとても心に残りました。
 いわく、若いオモニたちは、子どもたちに万が一の危害はないだろうか、生活をどう支えていくか、毎日が戦いなのだ、とのこと。
 確かにそうでしょう。そうした日々の中で、ルーツを隠して地元の学校に入るのではなく、自分たちの文化を受け継いでいく朝鮮学校に入る、という決断は、戦いのひとつのピークでもあるのでしょう。
 
 だからこそ、それを応援する僕らに対して、思った以上の感謝を示されたのでしょう。
 
 帰り、なんだか心が満たされてうきうきの僕は、あしなが育英会の子どもたちに寄付して、駅前のぼろぼろのホームレスの方に弁当の差し入れをして、それからタワーレコードでCD7枚大人買いして、家路についたのでした。

2009年12月13日

アメリカは好きだけど

 僕は今でもアメリカが好きです。
 これは、二十代の2年間を過ごした思い出のせい。その前からの思い入れと、その後の記憶と、・・・海外で行きたいところはたくさんあるけれど、特にフィリピンの漁村は好きな場所だけれど、・・・でも、アメリカ好き。

 ではあるけれど、「辺野古に早く決めなければ日米関係は悪化」という報道の仕方には納得がいきません。それほどにアメリカのいうことを聞く必要があるのか。そもそも、日米関係が悪化したとして、今の日本にどれほどの不利益があるのか。
 
 そもそも、日米関係の悪化を言っているのはアメリカの現政権筋でしかなくて、しかもそれは単なる脅し文句でしかない。というのも、今日米関係が「悪化」したとして、それで現実的な不利益はほとんどあり得ないからです。

 現在の日米の経済関係の中で政府が果たす役割は非常に小さくなっています。そもそも自由貿易を標榜するアメリカで、それが実際のところ建前であるにしても、それほどに政府が力を発揮できる状況に今はありません。Buy Americaキャンペーンをやっていた20年前と状況は違います。

 そして政治関係で見ると、フィリピンがいい例です。フィリピンは90年代前半、強まるピープルパワーによって、ついにアメリカ軍基地を追い出してしまいました。
 フィリピンのアメリカ好きはつとに有名で、ある調査ではフィリピン人の60%近くが「フィリピンがアメリカの51番目の州になることを歓迎する」と答えていました。
 そのフィリピンが、アメリカ軍を追い出し、その結果アメリカとの関係はこじれたか?ほとんどそういうことは起きませんでした。

 また、現在の、たとえば北朝鮮問題を安全保障の問題として考えた場合、アメリカ追従がベストでしょうか?むしろ、中国追従の方が合理的な選択とはいえないでしょうか。経済的にも、軍事的にも、政治的にもますます大きなパワーを持つようになった中国に仲裁を頼む方が、遠くアメリカからオバマが助けに来てくれると考えて待つことよりもはるかに現実的な対処法だと思います。

 日本の政権が、交代した。それにより、日本は今までの約束には縛られず、独自の政策をとる。それを堂々と主張するのが、現政権の仕事であり、権利でもあります。

 辺野古問題でアメリカ追従する必要はない。

 辺野古の近くに大好きな宿をもち、大好きな人々をもっている者として、あの海に基地は許せません。

2009年02月25日

未来を考える力

 これを言ったら、相手は怒るだろう。怒ったら、自分を殴るだろう。殴られたら自分は怪我をするだろう。
 そんな場面でも、時として人間は「これ」を、言ってしまいます。そして、殴られる。

 人間はちょっと先のことを考えるのは、かなり苦手なんじゃないだろうか。最近そんなことを考えます。

 テロの応酬も同じ。
 目にものを見せてやる、という相手に対する力の論理がさらに大きな報復を生むことが、分からないわけではない。それでも、先のことよりは、今のことを考える。
 
 ヒュームは「これから12ヶ月先に私が行う行為のことを熟慮する際、私は常に大きな善の方を選ぶ決意がある―たとえ時間的にそれが近かろうが遠かろうが。しかしそれに接近してくると、現在への新しい傾向性が発生し、私が最初の目的と決意を変わらずに固守することを難しくする」と書いているそうです(『行動経済学』友野典男2006,光文社新書)。

 実際には、12ヶ月程度では分からない。10年先ならば、結構考えられそうな気もするのですが。


 サブプライムローンは、現在は利子が低く、数年後には利子が大きく上がる、というローンでした。数年後の支払額は、払える限度を超える。しかしその時には低利ローンに乗り換えればよい、と人々は考えたようです。

 その頃にはさらに家の評価額が上がっているだろうから、ということなのですが、冷静に考えれば、そんないつまでも上がり続けるなどということはあり得ない。でも、その渦中にいると分からないものだ、というのは日本もバブル景気の時に経験しました。
 ただし、サブプライムの場合は、それをごまかして売った銀行の責任が大きそうですが。

          ***


 では、悪い結果がはっきり分かることならば、やらない、ということを人は選ぶべきなのか。
 
 そう簡単ではない、という義務論を、アマルティア・センは、インドの叙事詩マハーバーラタの武人アルジュナと友人のクリシュナの対話で説明しています(『福祉と正義』セン・後藤玲子2008,東京大学出版会)。

 アルジュナは、今戦うと、たくさんの愛する人が死に、自分自身もたくさんの人々を殺さなければならなくなる。だから自分は戦わず、(明らかに不正を行っている)相手に譲る、と主張します。
 それに対してクリシュナは、「味方が信頼しなければならない将軍として、自分の義務を(それから何が生じようとも)拒むことはできない」と戦う義務を指摘します。

 「行為の結果を考えてはならぬ/先へ進め」というT.S.エリオットの詩も、こうした立場を表している、ということらしい。
 人がおかれた立場による義務というのは、論理ではないけれど倫理ではある、ということでしょう。

 ただしセンは、アルジュナの考え方を支持しています。それは、「ひとは自分の行為と選択の結果に対して責任を取らなければならないし、この責任は帰結から独立した責務や義務への示唆によっては取り除かれない」ということです。


 でも、実際の人間にはそうした帰結主義的な決定はかなりむずかしい。
 「現在志向バイアス」は、経済学的にも、人間の価値判断のかなり中心的なところにあるものだからです。

(もしかしたら続く)

2008年11月20日

軍隊は自分で弱くなることはない


筑紫哲也の追悼番組の中で、田母神論文問題に関して、田原総一朗が二度にわたって繰り返していた。


「田母神と自衛官らの論文提出は軍の決起に他ならない。」


先週の草の根援助運動学習会の中で、村井吉敬氏は、インドネシア国軍の改革は進むか、という質問に対して次のような趣旨のことを答えた。


「改革はむずかしい。軍隊というのは暴力装置だ。ひとたび軍が力を持ったらそれを人々がコントロールするのはむずかしい。アメリカも、軍産複合体が力を持ってさまざまな戦争を進めてきた。だから誰が大統領でもなかなか止められない。日本もこのままいったら軍が力を持つ時代がくるだろう。」


 『銃が人を殺すのではない、使う人間が殺すのだ』というのは、アメリカの銃容認派がしばしば使うレトリックだけれど、シビリアンコントロールというのは、このレトリックが機能している状態と考えることもできる。
 おそろしいのは、この『銃』が自己判断を始めたときだ。『銃』が自分を止める判断をするわけはなく、だれもそれを止めることができなくなる。

 現実には、軍隊も人だ。装置ではない。しかもしばしば優秀な人材が集まる。だからこそ、軍隊に自己決定権限を与えてはならない、というのがシビリアンコントロールなのだ。