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2010年07月15日

熱海殺人事件

 1975年、早稲田の文学部に入学した僕は、退学一流、留年二流という教えを守ろうと、なるべく講義には出ずに街をふらふら。金も意気地も才能もないのに、結構あちこちのぞきまわっていました。
  
 早稲田なんだから、演劇にもはまらなくちゃ。そんな思いもあって、唐十郎の赤テントや鈴木忠志の早稲田小劇場などにも通い、そんな中でつかこうへい「熱海殺人事件」も観ました。

 赤テントの衝撃もすごかったけれど、赤テントは、いわば唐十郎が最初から仕掛けた衝撃をそのまま受け止めた衝撃。それに対して、「熱海殺人事件」の衝撃は、表現の底の底にある純粋なものに打たれての感動で、その印象はいわばトラウマのように、長いこと褪せずにむしろ僕を縛ってきたような気さえします。

  
 僕が観たのは初演のオリジナルキャスト、三浦洋一、平田満、加藤健一の組み合わせで、色々な方のブログを見てみると、75年の秋の舞台のようです。
 青山VAN99ホールという、文字通り99円で観られる当時としても破格に安い劇場で、VANというブランドをつくった石津謙介氏の社会的サロンのような施設だったようです。イヨネスコの演劇なんかもここで観たんじゃなかったかな。
 
 つか演劇について、扇田昭彦は「アイロニーのある、露悪的で苦い笑い」と書いていたけれど(朝日新聞2010-7-13)、僕はそういう風には感じませんでした。僕が感動したのは、何重にも積み重ねられた意匠の下の、無垢な叙情性でした。
 
 今さら正面に出すことなどできないような叙情的なものを、刑事がものすごいスピードで語るストーリーに犯人が合わせていくという仕組みの中で、少しずつ、少しずつ表現する。ほとんどなにもない舞台の向こうを見ながら平田満が語る言葉の中に、海が見えて、人々の心が見える。
 
 観てしばらくたった夜、思い出して一人で泣いた覚えがあります。泣いたのは、叙情性そのものにもあったのだけれど、むしろ、現代の表現の屈折さ加減にせつないものを感じていたのではなかったかな。
 当時小説を書こうとしていた僕は、全盛だったヌーボーロマンにも通じる、素直に書けないつらさを含んだ現代の表現というものに、時代の人々の苦しさを感じていた、ように思います。 
 
 ちなみに、僕は一流にはならなかったものの、二流にはなれました。それも、卒業の年にようやく優の数が二桁になるという成績で。それに苦しむことになるのは、かなり経ってから。
 
 退学一流、留年二流、卒業三流。誰が言ったのやら、それを素直にやろうとする青年には、本来無縁のフレーズですね、今考えれば。文学、というものにやられてたんだなぁ。早めに諦めて、よかったのかもしれないね。

2010年07月07日

違和感の正体

 今のアメリカへの違和感。それは、時代への違和感のような気がしてきた。
 
 一言で言えば、真面目できちんとした社会への違和感。
 
 僕は、スクエアだった世界が、そんなものは壊せ、エスタブリッシュメントを信じるな、と言われて劣勢に立たされるところを見てきた。60年代から80年代は、そういう時代だった。
 
 既存の価値観から自由に外に飛び出ることが大事で、生意気であることこそが存在意義だと思っていた。
 
 マイルスデイビスは、50年代にはスーツを着ていたけれど、その後はスーツは脱ぎ捨てて、パンツとシャツのファッションになった。
 ビルエバンスは、スーツから、ひげ面になった。
 根津甚八は、「スーツなんて生まれてから今まで着たことない」と言っていた。赤テントからメジャーになりかけていた頃のことですけれど。
 
 だから、そういうものだと思っていたのだ。
 
 ダーマ&グレッグというアメリカのTVドラマでは、アメリカの自由な家とエスタブリッシュメントの家のぶつかり合いが出てくる。ヒッピー家庭に育ったダーマと、金持ちビジネスマン家族の息子、グレッグ。そのカルチャーの違いが面白いコメディだったのだけれど、僕はアメリカではヒッピー家族寄りの家ばかり知っていたので、グレッグの家そのものが既に新鮮。だから、ダーマの家も古い意匠になりつつある、というのは僕にとって逆のカルチャーショックでもある。
 
 でも気付いてみたら、世の中は、とてもしっかりした世界になりつつある。みんな真面目に、正しいことを押し進める。きちんとした社会、きちんとした人々。いい加減さは許されない。
 
 僕はいい加減さを価値だと思ってここまで来たので、そうした価値観が、面倒でつらい。
 
 
 正しいことは正しい。反論の余地はない。そこから抜けるには?車谷長吉が朝日の人生相談に回答していた、「阿呆になることが一番よいのです」というのが答かな。
 真面目に、きちんと、自信を持って、正しい道を、進むこと。・・・からは、抜けていたいと思う、この頃。
 まあ、元からあまり入っているようには思えないけれどね。

2010年07月06日

どうしたんだアメリカ

この頃、僕が好きだったアメリカは、どこへ行ったんだろう、と思うことしきり。

 今、全米の公立学校の教師の10人に1人が、クビの危機にさらされている。理由は単純、経済的な危機だ。
 カリフォルニア州では増税案も住民投票で否決され、すでに33,000人がクビになった。
 さらに昨日のニュースでは、州職員の給与を最低賃金に引き上げるようシュワ知事が命じたという話も流れていた。
 
 テキサス州では、州カリキュラムの見直しで、「奴隷貿易」という言葉を削除して「三角貿易」という言葉を使うなどの超保守的テキストが準備されている。
 
 アリゾナ州では不法移民摘発のためとして、外見が外国人ならば警官は職務質問ができる、という州法が成立して、メキシコ系アメリカ人の憤激を買っている。
 
 アメリカにはマッカーシズムの時代もあったわけだし、ウルトラ保守の伝統というのもある。だからこんな状況も、あり得ることではある。それでも、豊かでおおらかなアメリカという夢を持っている僕にとっては、とても寂しいことだ。
 
 寂しいついでに、このところがっかりのアメリカをもっと列挙。
 カリブ海の原油流出は、エクソン・バルデスの流出量を3日で超えてしまうというすさまじさ。連日報道されているペンサコーラ海岸の惨状は、夢のリゾートの夢が破壊されていく寂しさだ。
 ニューヨークの公立学校からは、すでに95%でコーラが閉め出された。まあ、これはいいニュースともいえるのだけれど、でもアメリカといったらコーラでしょ。
 
 キティブーム、地下足袋ブーム、かわいいブーム、bentoブーム。やめてくれー、アメリカはセクシーでマッチョでブラウンバッグにピーナツバターサンドを入れるのがランチだったのに。
 
 
 僕が好きだったアメリカは、古くはジョン・ウェインで(保守的な部分はおいておくとして)、ヒッピー文化とハーレー・ダビッドソンで(ということは『イージーライダー』だ)、ビーチボーイズとモンキーズで、UCバークレイのリベラリズムとサインフランシスコのカウンターカルチャーで、ビートニクとゲイリー・スナイダーで、学生町チコで、『夢のカリフォルニア』で、スターウォーズとバーガーキングで、・・・・。
 
 夢が壊れていくのは、つらい。あの頃のみんな、どうしてるのかなぁ。
 

2010年04月03日

フィリピンの南沙織

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 1970年代のアイドル・南沙織は、山口百恵や桜田淳子に先行するアイドル第一世代です。当時は小柳ルミ子、天地真理とセットでアイドル三人娘とされていたのですが、いやいや、全然違うぞ。かわいくて、爽やかで、知的な雰囲気がとても上品。
 
 youtubeで見始めたら、とまらなくなってしまいました。17歳の時もかわいいけれど、まっすぐに成長した引退間際の雰囲気、そして1992年にほんの少しだけテレビ出演した時のすてきな大人の女性らしさ。そして、なによりも暖かくて伸びやかな歌声。こんなに歌、うまかったんだ。
 
 
 沖縄出身の彼女は、デビュー当時は奄美出身ということになっていたそうです。しかもフィリピンとのハーフということになっていました。実際にはお母さんの再婚相手がフィリピン人だったそうですが、どうしてそういう風な出自に変えられていたのか、今考えるとかなり興味深い。
 
 僕は実感として経験したことはないけれど、金城宗和によれば、沖縄出身者差別というのは一部ではかなり強くあったそうです。しかも当時はまだ、沖縄返還前。その沖縄出身というのは、今では分からないけれど、アイドルとしてはマイナス要素になったのでしょう。

 一方、今では時に出稼ぎ者のイメージで語られてしまうフィリピンは、当時はエキゾチックなアメリカ文化の響きがあったのだろうと想像されます。それやこれやで奄美出身フィリピンハーフ、になっていたのではないかな。
 
 
 作家の大岡昇平が彼女をとても気に入っていて、1974年の『婦人公論』2月号で南沙織と対談しています。
 
 http://www.cynthiastreet.com/book/fujin.html
 
 その対談は残念ながらあまりかみ合っているとは思えないのだけれど、大岡昇平は「あなたのお父さんはフィリッピンの方でしょう。ぼくはフィリッピンへ、戦争で行って、その話ばかり書いてる。だからフィリッピンはぼくの守備範囲なんだよ」と言いながら、「かわいくってさ、スタイルもいいしね、顔もいいけど(笑)」などと大絶賛しています。
 64歳の大岡昇平が19歳の南沙織に懸命にしゃべっている姿は、どちらかといえば痛々しい感じもあるのだけれど、フィリピン、沖縄というキーワードに反応してしまう僕としては、対談できていいなぁ、と大作家大岡昇平を羨んでしまいます。もっとも当時、僕が17歳だったわけだけれど。
 
 最近では銀杏BOYZもカバーしているデビュー曲「17歳」が出たとき、僕は15歳。南沙織と同じようなストレートヘアのガールフレンドと生まれて初めてつきあっていた僕は、その彼女にもちょっと重ねて、「海辺のまぶしさ 息もできないくらい」というフレーズに、まさに息もできないくらいになっていました。
 
 自分の部屋に初めて張ったポスターは、当時とっていた「中学1年コース」についていた折り込み付録でした。日焼けした素肌がまぶしかった・・・。
 
  森高千里が「17歳」をカバーしたときに、南沙織バージョンがゆっくりとして古色蒼然とした感じにさえ感じられて寂しく思ったものでしたが、今になってみると、森高千里の方が時代性が強くて古くさい。南沙織はかなり普遍的な価値を持った楽曲になっていると感じます。 
 また出てきて歌ってくれないかなぁ。今井美樹のような、いろいろな世代に支持される歌手になると思うのだけれど・・・。

2009年03月16日

人は給付があるという理由だけで働かないことを選択することはない

 
 前回の続き。
 
 ベーシック・インカムを考えるときに必ず問題になるのが、「何もしていないのにお金が支払われるのならば、人は決して働かないだろう」という推測だ。

 そうなのだろうか。

 いい車に乗っていながら給食費を払わない保護者、というのが話題になることがある。
 同じような話では、いい生活をしながら生活保護をもらっている人の存在というのもある。

 実際のところ、そんな人たちはどのくらいいるのだろう。

 文科省の調査によれば、給食費を払っていない生徒は、全国の小学校で0.8%、中学校で1.3%だということだ。

http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/19/01/07012514/002.pdf
 
 その理由は、「保護者の責任感や規範意識(が低いこと)」が約6割、経済的な問題が約3割、とされている。つまり、いい加減なので給食費を払わないという保護者がいる家庭は、それぞれ小学校全生徒の0.5%程度、0.9%程度、ということになる。

 このままだとまだ多いように見えるかもしれない。

 しかし、この理由が学校側から見たものであることに、注意が必要だ。
 教員としての自分自身の実感では、保護者の経済的な問題というのはそう簡単に分かるものではない。
 社会政策を逆手にとる不正行為は、実際にはごくごく少数の人たちの話だ、と考えるべきだ。


 にも関わらず、社会政策を不正に使ったり、怠惰でいい加減だったりする人の存在というのは、人々の意識にかなり大きく刻み込まれている。

 これは歴史的な偏見といっていいものだ。

 「自己依存の感覚が、労働者階級のあいだに広く普及していた。それゆえ、教区の救済は不名誉で汚らわしいものと思われていた。また、これを申請することは、たとえ高齢であったとしても、怠惰であったり、思慮がなかったり、あるいは極度の不幸であったりすることを認めるに等しかった。」
 
 1818年のイギリスで、救貧法が登場したころの話を書いたものだという(『貧困の概念』、ポール・スピッカー、2008、圷洋一監訳、生活書院)。

 以来200年、そうした「偏見」は根強い。

 スピッカーによれば、チャールズ・マレーは著書『衰退』で、次の主旨のことを述べているという。

 「何もしていないのにお金が支払われるなら、人は決して働かないだろう」

 そして、次のように言う。

1 人は政府の誘因に反応する。飴と鞭がうまくいく。
2 人はもともと勤勉でも道徳的でもない。制裁がなければ、人は労働を避け、不道徳になるだろう。
3 人は自分の行為に責任を負わねばならない・・・。

 しかしこれは誤解だ、とスピッカーは書いている。

 「労働から得られるものには、(お金の)他にも身分、活動、社交、目的意識、自己実現能力などがある。」
 「そうしたものが得られないのであれば、働かないことが選択されるだろう。人は給付があるという理由だけで働かないことを選択するという考え方に、経済理論上の根拠は一切ないのである。」
 
 スピッカーは生活保護のような社会政策について語っているのだが、ベーシック・インカムにも当てはまる話だ。

 人々が当然のごとく生活が出来ること、をまず分かち合う。

 ベーシック・インカムは、充分論議に値するアイデアだと思う。

2009年02月25日

未来を考える力

 これを言ったら、相手は怒るだろう。怒ったら、自分を殴るだろう。殴られたら自分は怪我をするだろう。
 そんな場面でも、時として人間は「これ」を、言ってしまいます。そして、殴られる。

 人間はちょっと先のことを考えるのは、かなり苦手なんじゃないだろうか。最近そんなことを考えます。

 テロの応酬も同じ。
 目にものを見せてやる、という相手に対する力の論理がさらに大きな報復を生むことが、分からないわけではない。それでも、先のことよりは、今のことを考える。
 
 ヒュームは「これから12ヶ月先に私が行う行為のことを熟慮する際、私は常に大きな善の方を選ぶ決意がある―たとえ時間的にそれが近かろうが遠かろうが。しかしそれに接近してくると、現在への新しい傾向性が発生し、私が最初の目的と決意を変わらずに固守することを難しくする」と書いているそうです(『行動経済学』友野典男2006,光文社新書)。

 実際には、12ヶ月程度では分からない。10年先ならば、結構考えられそうな気もするのですが。


 サブプライムローンは、現在は利子が低く、数年後には利子が大きく上がる、というローンでした。数年後の支払額は、払える限度を超える。しかしその時には低利ローンに乗り換えればよい、と人々は考えたようです。

 その頃にはさらに家の評価額が上がっているだろうから、ということなのですが、冷静に考えれば、そんないつまでも上がり続けるなどということはあり得ない。でも、その渦中にいると分からないものだ、というのは日本もバブル景気の時に経験しました。
 ただし、サブプライムの場合は、それをごまかして売った銀行の責任が大きそうですが。

          ***


 では、悪い結果がはっきり分かることならば、やらない、ということを人は選ぶべきなのか。
 
 そう簡単ではない、という義務論を、アマルティア・センは、インドの叙事詩マハーバーラタの武人アルジュナと友人のクリシュナの対話で説明しています(『福祉と正義』セン・後藤玲子2008,東京大学出版会)。

 アルジュナは、今戦うと、たくさんの愛する人が死に、自分自身もたくさんの人々を殺さなければならなくなる。だから自分は戦わず、(明らかに不正を行っている)相手に譲る、と主張します。
 それに対してクリシュナは、「味方が信頼しなければならない将軍として、自分の義務を(それから何が生じようとも)拒むことはできない」と戦う義務を指摘します。

 「行為の結果を考えてはならぬ/先へ進め」というT.S.エリオットの詩も、こうした立場を表している、ということらしい。
 人がおかれた立場による義務というのは、論理ではないけれど倫理ではある、ということでしょう。

 ただしセンは、アルジュナの考え方を支持しています。それは、「ひとは自分の行為と選択の結果に対して責任を取らなければならないし、この責任は帰結から独立した責務や義務への示唆によっては取り除かれない」ということです。


 でも、実際の人間にはそうした帰結主義的な決定はかなりむずかしい。
 「現在志向バイアス」は、経済学的にも、人間の価値判断のかなり中心的なところにあるものだからです。

(もしかしたら続く)

2009年02月05日

人と友だちになりたかったシャチ

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NHK・BS世界のドキュメンタリー「人と友だちになりたかったシャチ 迷子のルナ」は、カナダのバンクーバー島の入り江に住み着いた子どものシャチをめぐるドキュメンタリーです。

http://www.nhk.or.jp/wdoc/backnumber/detail/090203.html

人懐こく、人間と遊ぼうと誘っているシャチの姿は、奇跡のようにかわいい映像になっています。しかし、そもそも野生のシャチとふれあっていいものかどうか?それをめぐって、人々の立場は大きく分かれます。

1 触れあって遊びたい派
 とにかくかわいい、遊びたい。近くに寄ると、遊ぼう遊ぼうと寄ってくるのだから、遊んでいいじゃないか。

2 野生動物と触れあうのは反自然だ、派
 人間と野生動物が触れあうのはお互いに危険が大きい。不幸な事態を招きかねない。触れてはいけない。

3 シャチがそこにいるのは神様の思し召し、派
 シャチは人間に何かを伝えるためにそこにいる。触れてはいけないというのは人と動物の共生を邪魔する行為だ。シャチが死んだり事故が起きたりしても、それが神様の思し召しなのだ。

4 人懐こいシャチは邪魔、派
 ボートを壊したりカヌーをひっくり返したりするシャチは危険で邪魔。射殺なりなんなりで排除するべきだ。


1と4は地元の人や観光客、2は漁業省や学者、3は先住民。どの人々も、それなりの論理を持っていて、一概にどれがいいともいえない議論です。

自然と人間の共生というのは、どれを指すのか。そもそも自然の中に、人間は入っているのかいないのか。とても大きなテーマですが、僕はこのドキュメンタリーを、「誰に決定権があるのか」という民主主義の問題として面白く見ました。

 近くで触れあってしまった人たちは、「シャチと触れあう」という行為にあがらいがたく魅了されてしまい、それを禁止するという行政には反発するばかり。先住民たちも、古くからの人と野生動物の共生を邪魔するものとして行政に反発し、独自の闘いを仕掛ける。
 一方行政は、人と野生動物の関わりの問題点を冷静に判断して、禁止措置やパトロールを行う。
 
 僕としては、行政の態度が正しい、と思います。でもその一方で、誰かがルナとふれあい面倒を見る必要はある、とも思えるし、できることならば僕がその一人になりたいという気持ちもあります。
 こうした時に、誰が「正しい」判断をして、誰が実際の行為を行うのか。現代の民主主義では、これが正解という答が出せない。

 近くに答があるような気はします。人という種が、集団で決定を下すときに、必要なもの。冷静な判断だけではなく、人全体の意識の核をまとめるなにかが、あるように思える。それは、行政の態度よりは先住民の態度の方に近いところに、あるのではないか。

番組を見る限り、それぞれの立場の人たちが直接対話した様子はありませんでした。
 とりあえずの解決策としては、とにかく対話、ということじゃないかなぁ。

 なんらかの形で、一度授業に使いたいと思っています。

 で、ルナは結局どうなったか?
 ここでは書けません。後編をごらんになるとわかります。

全編2/10、後編2/11で再放送があるそうです。

2008年12月16日

お金より大切なもの

 「分からない。お金より大切なものって、なんなんですか?」
 『やまとなでしこ』の主人公・神野桜子が繰り返し言う。
 
 世界は今、その答を探しているところだ。


 お金が一番大切、というのが資本主義。お金を儲けることを目的にかかげて活動する。お金が稼げることが正しいこと。その価値の源泉ははっきりしている。
それが破綻してきている。好況と恐慌は、避けて通れないものだけれど、そしてそのためにセーフティネットつきの資本主義を人間は組み立ててきたはずなのだけれど、それが今の状態だ。

 会社って、なんのためにあるのだろう?
 次々に人をクビにしていく会社は、組織が残ることを最大の使命としている。金を中心として、組織が残り、人は消えていく。

 資本主義は、明らかに破綻している。 

 資本主義の本質はギャンブルだ。これは森巣博の言葉だけれど、今ほどこれが分かりやすい時期はない。多くの人がこのギャンブルで失敗して、沈んでいく。

 では、お金より大切なものとはなにか?

 自由だー、と叫んだのは60年代のヒッピーたち。犬井ヒロシも言ってるけど。
 生活の質、というのはアマルティア・セン。
 生活の充足感、というのはブータン王妃。
 愛、と口に出しては言わないけれど、中原欧介(神野桜子に振り回される青年)。
 友愛と連帯感、というのが連帯経済。
 
 ひとつのノー、たくさんのイエス。
 答はいろいろとある。
 たくさんの場所で、たくさんの答を探して、社会は動き出している。
 そうでないと、この世界はうまくいかない、と、多くの人が気づきだしているから。

2008年12月09日

「正しい社会」なんていやだ(アメリカの教育改革3)

  「大切なのは、建前では割り切れない問題があると知ることではないか。一筋縄でいくはずのない正邪、勝敗、損得などを二者択一式に判断する風潮が広がる。多数派の価値観に合わないと、規格外として排除する傾向も強まる。情理の理が協調され、情の影は薄れる。世の中がぎくしゃくしていると嘆く人が目立つのも、無理からぬ話だ。」

 12/8の毎日新聞社説だ。愛知の高校が寮に喫煙室を造っていたというニュースに関する記事だけれど(そのニュースの中身はここでは措いておいて)、今、多くの人が息苦しさを感じているのはこの「正しさ」の論理なのだ。
 
 ***

 人間は必ずしもいつも正しいわけではない。自分でも正しくないと思いながら行動してしまうこともあるし(僕だけ?いやいや、そんなはずは?)、自分では正しいと思ってやっても、社会的には正しくない行動というのもある。
 
 そうした「正しくなさ」を規格外として排除する論理。それが風潮だとしたら、おそろしい。それが社会のシステムとなったら、それは管理社会と呼ばれる。

 誰かが常に「正しい」方向に管理する。その「誰か」が個人であれば、それは独裁主義だし、それをシステム化すれば官僚制超管理社会になる。

 ***

 孔子は2500年前、

「みちびくに政を以てし、これをととのふるに刑を以てすれば、民免れて恥ずるなし。これを道くに徳を以てし、これを斉ふるに礼を以てすれば、恥づる有りて且ついたる」

 と言った。(「論語」)

 政治と刑罰で人々を動かしたら、人々は自分で判断しなくなる。徳と礼でやれば、自分で動くようになる、ということだ。この「徳」と「礼」はむずかしいところだけれど、人に意見しようとする者自らの真心と礼儀、と解釈すればいいと僕は思う。

 
 落語「百年目」では、遊びが見つかって恥じ入る番頭に、店の旦那が諭して言う。

 「番頭さん、あのね、遊びをね、隠してやることはありませんよ。ね?遊びというものをね、遊んでその味を自分の体に付けて、表に出してもらいたい。(略)そして小言も言いすぎると奉公人がいじけてしまうから、お前さんが逆に円みを帯びて帳場に座って、ニコニコ笑いながら言うべきことは言っていれば、それだけに力のある人だから周りはみんな言うことききます。動きますよ。」(「志ん朝の落語」・ちくま文庫)

 ***
 
 正しさ、を押しつける社会は息苦しい。
 正しさだけを前面に出した教育もまた、息苦しい。

 正しさを唯一の尺度にした社会に、してはならない。


 なんの話をしているかって?
 前回書いた、ミシェル・リーの教育改革の方法を、批判しているのです。
 

2008年12月01日

定額給付金は開発学的に愚策

 一定の予算を使って、ある地域の人々を支援したい。どうするのがいいか。開発援助の基本問題だ。

 簡単なのは、地域の人々みんなに現金をばらまく方法だ。
 人々はとりあえず喜ぶ。
 食べるものにもこと欠いていた人たちは、とりあえず食べられる。寒さに震えていた人たちは、着る物が買える。
 賢い、余裕のある一部の人たちは貯金するだろう。
 しかし、それで終わりだ。そのお金がなくなったら、あとは待っても助けはこない。
  開発援助としては最低の方法だ。
 
 そんなバカなことにならないようにさまざまな事例や研究を積み重ねてきたのが開発学だった。
 たとえば、参加型開発。たとえば住民組織化。たとえばマイクロファイナンス。教育や保健衛生に重点的に配分することも考えられる。人々の福祉に届くように、しかもなるべく、それがさまざまな波及効果を及ぼして、持続的な支援となるように。


 定額給付金2兆円は、それが発案された8月から、経済状況が急展開し過ぎたという事情はある。当初の生活支援という目的が、景気刺激策にすり替わってしまったのも、それなりに理解はできる。
 それにしても稚拙な方法であることは否めない。しかも、これは開発援助とも違って、外から来る資金ではなく、元々地域内の資金なのだ。

 税の本質的な役割は、所得の再分配だ。それを一律に分配してみたところで、真の公平な再分配にはならない。かといって、生活支援目的で使われるものが大半となれば、景気刺激策にもならない。

 これについて、公明党はニュースで面白いことを書いていた。
 日本総研の調査部長の話として、「2兆円は、ほぼ全額が消費に回り、GDPを0.4%押し上げる効果はあるだろう」という。

http://www.komei.or.jp/news/2008/1114/13004.html

 国民から集めた金を市場に流せば、その分のGDPが上がる。当然のことだし、2兆円なら確かにGDPの0.4%だ。これは、その2兆円がなんらの経済波及効果を及ぼさない、と自ら語っているに過ぎない。
 しかも、「ほぼ全額が消費に回る」という推測の根拠もない。一定額が貯金に回ると考える方が自然だ。

 2兆円のばらまきは、開発学の視点から見て、景気刺激策としても、生活支援策としても、なんの工夫もない愚策だ。

2008年08月30日

次男はヨーロッパ放浪中(世界に悪い人はいない)

 大学3年生の次男は、今ヨーロッパをバックパック旅行中。
去年はあるNGOのインターンとしてカンボジアにはまっていたけれど、ヨーロッパ研究のゼミに入ったので、今夏は40日かけてあちこち回っている。
 インターネットカフェからときどき、メールを送ってくれるので、だいたいどこにいるのかは分かる。

 その次男が先日送ってきたメール。原文はローマ字。
 
 「植村直己の本を成田で買いました。そこには「私は世界中を回ったが、悪い人は一人もいなかった」と書いてありました。
 まさに、そのとおりです。フレンドリーな人、愛想の悪い人、いろいろいますが、「悪い人」はいません。
ガイドブックには気軽に話しかけてくる人には気をつけろ!と書いてありますが、気軽に話しかけてくる人もみんな「いい人」です。
フランクフルトやミュンヘンでイタリア人やロシア人に話しかけられましたが、本当に楽しく会話をして終わりました。フランクルトで会ったイタリア人は格好も汚く、ホームレスのようでしたが、沖縄の話で盛り上がりました。
 
世界とはそういうものですね。いや、人間ってそういうものですね。ヨーロッパだろうと、カンボジアだろうと、日本だろうと、人間に変わりはありませんでした。これが、今回1番強く感じたことです。

1日フィレンツェ滞在を延ばしました。明日、ローマに行き、ローマからニースに行きます。ではでは、またメールします。チャオ!」


 世界に悪い人はいない。僕もずっと、そう思っている。
 
自著『NGO主義で行こう』(藤原書店)の第1章のタイトルは「わたるアジアはいい人ばかり」として、悪い人と思った人がいい人だった経験を書いた。
 悪い行為というのは、確かにある。でも、人はいい人ばかりだ、と僕は思う。

 ・・・で、つまり、次男は僕の本を読んだことがない、ということなんだな。

★草の根援助運動ホームページもごらんください★

2008年07月25日

公共性と私性

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 前回書いたことのゆるやかな続き。

 教育学者の広田照幸は、「一元化や同化を求める『公共』観に対して、多様性や異質性によって成り立つ『公共』観を対置させる」ことを提唱している(『21世紀の社会と教育』2008、アドバンテージサーバー)。
 たとえば冷戦時代にあったような一定の社会像や目標がなくなった今、いろいろなビジョンを考え、提出できるような市民の力こそが必要なのだ、と広田は言う。

 広田によれば、教育基本法改正(改悪)反対運動の中で唱えられていた、国家による心の領域への侵害への反対、という図式には「ある種の狭さ」があった。「『私』を守った先にどういう社会の連帯や共同を描くのか」が、この反対運動では「どうもよくわからない」。
 そのままでは、どうせみんな違うんだから勝手にやればよい、という価値相対主義とか、自分の回りの生活だけが大事だという私生活主義に陥ってしまう。そうではなくて、「具体的な国家観とか社会観とか人間観とかは、多様な可能性に向けてオープンにしておいて、そこの選択は個々人に委ねてしまう」ことが必要、ということだ。


 60年代から最近まで、公的な介入を排除して私的な領域を守ることこそが、市民的自由を獲得する、ということだった。そこには、何であれ私的なものに対する公的な介入を防ぎたい、という意識があった。そうした「公的な介入」には、いわゆる官僚支配も含まれる。そこで、たとえば郵政民営化がむしろ左寄りから支持されるような現象も起きてきたのだ。
 一方、それと対立するような「大きな政府」が、福祉政策を望む左翼と、公共政策を維持したい保守派との両方に支持されたりもする。市民的な自由を守るために公的なものを必要とするのかそうでないのか、決定的なビジョンはまだない。
 それは端的に言えば、私的に儲ける自由の範囲が決まらない、ということ。もう少し過激な問い方をすれば、他者からの搾取の自由はどこまで私的な自由と言えるのか、ということだ。「金を儲けることのどこが悪い」と言った某社長の言葉は、ここを突いている。

 このところ、さまざまな規制の復活が報道されてきている。公的な規制と私的な自由のバランスに、答はない。ちょうどいい支点を求めて、あっちへいったりこっちへいったり、揺れ動きながら探していくということになるのだろう。
 

 ところで、写真は近くのスーパーで安くなっていたからと妻が買ってきたパパイヤ。パッケージにはただ「フィリピン産果実」とだけ書いてある。「果実」って。なんだか分からないで売ってるわけ??これには規制はないのか??
 我が家では、苦い、臭いと不評だった。えー、熟していておいしいのに。ほとんど一人で食べました。 

2008年07月23日

公権力に依存するということ

 落語『黄金餅』は、見舞っていた金山寺味噌屋の金兵衛の目の前で長屋の住人・西念が死んでしまうところから始まる。
 「お、おぃ!しっかりろよ、西念さん!・・・いけねぇ、くたばっちまった。」
 その弔いについて金兵衛に相談された大家は、「本来なら大家がやるところだが、お前が頼まれたんならやってやってくれ」と金兵衛に頼む。ある理由からそれを待っていた金兵衛はそこで、長屋の連中と一緒に、西念を漬物桶に詰めて寺へ運ぶ。貧乏寺でわけの分からないお経をあげてもらったあと、焼き場へ運ぶのも金兵衛、骨壷に入れられた遺骨を寺に運ぶのも本来は(『黄金餅』ではそれをやらないのだが)金兵衛の役目になっている。
 
 実は西念が死ぬ前に、持っていたお金を餅に挟んで呑み込んでいた・・・というのがこの話の面白いところなのだけれど、それは置いておいて、僕にはこの「死」の身近さが面白い。

 「死ぬとこんなになっちまうのかなぁ、いい人だったのに、なむあみだぶ、なむあみだぶ」と大家さんは言う。その一方でおかみさんは線香と供え物を買いに走り、長屋の連中は次々に現れて線香をあげていく。

 ここにあるのは、今生きている人たちによる、亡くなった人への当然の見送りの一部始終だ。此岸にいる人が彼岸に渡ってしまう。それを見送り、あとの始末をつけるのは、此岸に残っている人たちの仕事だ。

 ところが、現代ではそうなっていない。彼岸に移ったとたん、その面倒は、医者・看護師・葬儀社の人・火葬場の担当の人の手に移る。子どもであっても夫や妻であっても、勝手に触ることはできないところへ行ってしまう。いや、実はできるのだけれど、できない、と感じてしまう。
 此岸と彼岸を分けるものは、単なる場所の違いではなく、「公的なもの」なのだ。

 こうした「公的なもの」はどこにでも入り込んでいる。
 たとえば教育。自分の子どもであっても、教育権そのものは国に取り上げられている。自宅で主に親から学ぶ「ホームスクール」を受けている子どもはアメリカではすでに200万人いるそうだが、日本では親が就学義務を怠っているとみなされる。
 誰かに暴力的な行為を受けた場合もそうだ。それに対する報復は、自分の手で行ってはならなず、公権力に頼るしかない。それが現代のルールだ。

 フィリピンの海で、禁漁区を守る活動をするグループを「バンタイ・ダガット(海の番人)」という。こうしたグループはしばしば、敵対的な漁師たちから攻撃されたりする。そのために許可を得て武装して臨むこともある。
 本来は警察なり沿岸警備隊の仕事だ。なのに、なぜ?
 一つの理由は、警察では手が足りないから、というものだが、もっと本質的な理由がある。
 「警察は、自分たちの海じゃないから、真剣に取り締まってはくれない。賄賂でも出されれば簡単に釈放してしまうし、役に立たない。自分たちの海は、自分たちで守るしかないんだ。」
 あるバンタイ・ダガットのメンバーに聞いた言葉だ。

 「公的なもの」に守られ、その分誕生から死までさまざまな制約を受ける社会。人間が文化として積み上げてきた、安心の社会だ。その一方で、すべてを自分たちでやる社会に対する憧れのようなものも、僕にはある。
 自分のことだから、自分でやる。その潔さと強さも好きだ。

 どこまで自分の生と死を自分に取り戻せるか。それも生きる価値の大事なポイントのような気がする。

2008年07月02日

10歳で離婚した少女―イエメン―

Los Angeles Timesの記事。

 Nujoodという10歳の女の子が、裁判所にやってきて、裁判官に離婚したいと申し出た。

 相手は30過ぎの男性で、困窮した両親は、大人になるまで保護し育ててくれるという約束で結婚に同意したのだという。でも実際には、結婚したその日から性的な関係を迫られ、暴力を受けた。
 イエメンでは法的な結婚年齢は15歳だが、慣習的にははるかに早く、2006年の調査では女性の52%は18歳前に結婚しているのだという。
 
 Nujoodの話を聞いた裁判官は同情し、彼女は法的な保護が受けられるようになって、助けてくれる弁護士も現れ、夫と父親は逮捕された。イエメンでもさすがにこの話は大きなニュースになり、他の似たような女の子たちが名乗り出てきたり、結婚年齢の引き上げなどが議論されている。

 しかし、この話で一番すごいのが、このNujoodという女の子だ。伝統的には顔をさらすのもはばかれるであろうこの地で、顔写真とともに話が報道されることに同意し、「結婚はこりごり。学校に戻って勉強を続けて、苦しめられている人を助けるシャダ(自分を助けてくれた弁護士)のような人になりたい。他の女の子たちのお手本になりたい」と言っている。

 人は、経験やたたかいの中で強くなる。どんなところでも、希望を失わずに前向きな人間がいる。それは教育の程度とかとはまったく関係がない。
 先日インドから来ていたシャクンタラもそうだった。小学校を出ただけで、14歳からNGOで働いてきた彼女は、地域で初めて人前で自転車に乗った女性であり、初めてバイクを乗り回した(そして今も毎日オフロードバイクで各村を回っている)女性だ。
 各地で活躍している人たちの暖かさ、やさしさ、そして強さ。僕はひそかに「鄙の賢人たち」と読んでいるのだけれど、このNujoodにも同じものを感じる。応援したい気持ちでいっぱいだ。

 NGO活動をしていると、こうした人たちを支え、支えられ、知り合い元気付けられる機会に恵まれる。それがこうした活動をする一番のうれしさかもしれない。

ちなみに、新聞記事とは内容は違うが、同じライターの書いているNujoodに関するブログがこちらから読めます。賢そうな彼女の写真も。 

2008年05月01日

良い自由と悪い自由

 『ライラの冒険』のところで書いたことがそのまま書かれているものを見つけた。『新自由主義』(デヴィッド・ハーヴェイ、渡辺治監訳、作品社)だ。

「自由という言葉は、アメリカ人の常識的理解の中であまりにも広く共鳴を受けるので、それは「大衆への扉を開くためのエリートたちの押しボタン」になってしまい、ほとんどあらゆるものを正当化する。」

「アメリカでは個人的自由の価値は第一義的なものとして、音楽やポピュラー文化の中でこらまでもずっと祝福を受けてきた。」

 ハーヴェイは、68年の学生たちの政治的反乱や芸術の自由を求めるカウンターカルチャーが、いかに新自由主義に取り込まれていったかを丹念に検討している。

 新自由主義という自由を食い物にする思想が、ポランニーのいう「良い自由」を掻き消して、「悪い自由(仲間を食い物にする自由、コミュニティにふさわしい貢献をしないで法外な利益を得る自由など)」をはびこらせていく。

 かなり意識的にならない限り、新自由主義のはびこる根を取り去ることはできないだろう。
(この項つづく)

2008年04月27日

市民社会はどこにあるのか―映画「大いなる陰謀」―

映画「大いなる陰謀」

 
アンソニー・ギデンズは、人々が積極的に社会的意志決定に参加し、その上で自己決定する社会を「アクティブな市民社会」としている。でも、そんな「市民」になれる人は必ずしも多くない。人々は、日々の生活に追われ、日々の娯楽に追われる。自分の社会の成り立ちや他の人々のことを考えている余裕はない。
 
 余裕のある人たちはかつてもいた。それが「市民」だった。ローマ時代はそんな市民たちが政治を行い、それ以外の人々はその社会に棲息するだけの奴隷だったり、女性だったりした。イギリスやフランスの議会では、そうした役割を経済的には人々に養われている形の「貴族」が担った。しかし、現代の社会では、すべての人間が市民になる義務がある。それは苦しく、むずかしい。しかしそうあることでしか、真の民主主義社会は訪れない。

 コミットしてみろ。市民になれ。そしてみんなで解決への道を考える以外に方法はない。そういうメッセージを真正面から、ストレートに出しているのがトム・クルーズの復帰映画でもある『大いなる陰謀』だ。6年間続いている「イラク戦争」を、どう終わらせるのか。アメリカ社会は世界にどう責任を取るのか。

 ここには答はない。

 監督を兼ねたロバート・レッドフォードは、リベラル寄りの政治学の教授として若者に話をしているが、そのメッセージは整理されているわけではない。トム・クルーズ演ずる共和党の若手ホープである議員は、題名のような陰謀をめぐらしているわけではなく、共和党の展開する議論をそのまま押し出している。やや疲れたジャーナリストのメリル・ストリープは、メディアとして戦争の片棒をかついでしまった責任感と、大メディアとしての商業主義の間で、真摯なジャーナリストとして振舞うために苦しんでいる、そのアメリカのジャーナリズムの現状を体現している。

 映画としては、メッセージ以上のものがでているわけではない。傑作とは作者の意図以上のものがかもし出されている作品だとしたら、この映画は凡作だ。3つの場面だけで成り立つ地味な演劇でしかない。喜ぶべきなのは、これがアメリカのハリウッド映画として製作されていることだろう。アメリカ映画界は、まだこんな良心を持っているのだ。


 ところで、この映画を観ようと誘ってくれたのは、今年高校1年になった娘。先日「ライラの冒険」を観にいったのもこの娘とです。午前中はメーデーの出店ボランティアをしてくれました。いつまで親父とデートしてくれるのかな。 
 

2008年04月18日

「自由のための戦い」ライラの冒険


映画「ライラの冒険 黄金の羅針盤」公式サイト

「自由と平等、どっちか選ぶとしたらどっちがいい?」
 高校生に聞くと、当然半々ぐらいになるだろうという予想は外れて、かなりの割合で「自由」という答が返ってくる。高校生にとって自由というのはかなり強い価値らしいのだが、一体なぜだろう。
 その答のひとつが、こうしたメディアによる刷り込みなのだろう、映画を観ながらそう思った。

 自由のための戦い。映画「ライラの冒険・黄金の羅針盤」の主要なテーマのひとつがそれだ。教権と訳されるThe Magisteriumという組織が子どもたちの自由意志を剥奪しようとしていることに気付いた主人公は、「戦争よ!」と叫んで「The fight for the freedom」に身を投じる。

 数年前、アメリカ映画は静かになった。戦争にうんざりして、戦いの映画がぐっと減った。でもそれは一時だったらしい。もう、アメリカ映画は戦いばかり。戦うのが、好きなんだなぁ。


 日本語ではよく分からないが、敵である「教権」The Magisteriumという語は、英語ではローマ法王庁の権威を表す言葉で、宗教そのものだ。「黄金の羅針盤」の世界はこの世界のパラレルワールドということになっているので、ほとんどローマ法王庁そのものと考えていいのだろう。その、宗教的な精神の抑圧と戦う、自由の戦士、ライラとその仲間たち。かっこいいし、ファンタジーとしてとても魅力的だけれど、その構図は「イスラムのテロリズムと戦うアメリカ」と同じだ。
 映画の中で、たくさんの者たちが殺されていく。しかし、その殺される者たちの痛みは映画にはない。「教権」に雇われているらしい戦士集団も次々に殺されていくけれど、それは仕方ないことらしい。
 主人公の側も、死んでいく者たちがいる。でも、それはとりたてて取り上げられることはない。自由のために死んでいくのだから仕方がないことなのだろう。


 そもそも「自由のために死んでいく」って、相当おかしくないだろうか?
 「健康のためなら死んでもいい」というジョークがあるけれど、それと大して変わらない。
 世界の人々の自由のために自分が死んでいく、というロマンが被せられて納得してしまうのだけれど、実のところ、その「自由」というのは、「金持ちがより金が稼げる自由」とか、「他人の痛みは気にしなくていい自由」なのだ。


 「自由」って何?と高校生に突き詰めても、ほとんどまともな答は出てこない。「勝手にすること」とか「好きなことをすること」だそうだが、それが「平等」を脅かすという意識はない。「自由」と「平等」は、そもそも対立的なのだけれど、それには気づかない。そうした現実の中で、多くの高校生たちは不平等と不自由を享受することになるのに。

 「自由」ってすばらしい。そうした刷り込みが、小さいときからあちこちでなされている。それが今の不自由な「自由世界」の現実だ。


 ついでに・・・本来対立的な「自由」と「平等」をつなぐものが「博愛」なのだ、とジャック・アタリは書いている。並べ立てるのが本来むずかしい2つの理想を「博愛」で結びつける、そのユートピア思想がフランス共和制の国旗になっているというわけだ。