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参加型、とは

参加型開発、というのは、基本的には、受益者である当事者たちが自ら参加してやる、ということ。
この参加には、有名なロジャー・ハートの参加のはしごというのがあって、8段階のどこまで参加している(またはさせている)かという目安になっている。

この参加型の大前提は、当事者たちがその気になっていること。

これがとてもむずかしい。
青年海外協力隊の青年らが苦労するのもここが大きい。当事者たちにその気になってほしくて一生懸命やると、実は、「あの隊員、遠くから来てがんばっているから、助けてあげよう」という善意の参加になっていたりする。


人は日々のルーティーンに忙殺されて生きていくもの。その中で、それ以外の活動に「参加」する余裕がある人は、そう多くはない。


これを教育にあてはめてみる。

教育は、本来、受ける側=生徒、学生の自発性で成り立つ。でも、そうである場合の方が少ない。つまりほとんどの場合、教育現場は「参加型」にはなっていない。

支援者=教師は、その場合、どこまでそれを生徒の責任だと言えるのか?どこまで尻をたたいてやらせるべきなのか?

高校生にもなって、本人がやる気をみせないのならば、もうどうしようもない。そう思うときもある。いろいろなことで追いつめられて、この状況でもやる気が出せない生徒に、教師としてしてやるべきことはない、と思う。

でも、その、やる気の出せない状況や環境は、もともと本人の責任でつくってきたものでもない。

というよりも、そもそも本人の責任なんて、問えるのか?人間って、そういう責任の問える存在として在るのか?社会の中で、結局のところ、社会内存在としてしか生きられないのではないか?だとしたら叱咤激励して無理矢理なんとかさせていくのも、また教師の責任か?


参加型開発に戻る。

日々の生活の糧を得る活動の中で、善意と意志と気力と能力で、別の次元の活動をしようとするリーダーたち。僕が尊敬してやまない、そんなリーダーたちがいたら、それを支援するのが、多分、草の根援助運動のような小さなNGOの使命であり、できることだ。

「参加型」でない開発なんて、そもそもそんな大それた事をする資格が僕らにはない。その意味では、それは「参加型開発」ではなくて、土地の人々の進もうとする意志なのであって、僕らはそれを友人として手伝わせてもらうというだけのことだ。

そうして前に進んでいこうとする人々を助けられるのは、とてもうれしい。NGOワーカーとしても、教師としても。

さて、前に進んでいこうとしない人々には・・・。

うーむ。

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