個人のアイデンティティ
ある中学校で、教員対象の研修のファシリテーターをやりました。
人権研修という、学校では年1回はやることを義務づけられているものです。
外国につながる生徒が多い学校だと聞いていたので、ベトナム人のビンくんをテーマとした「ビンくんになにが起きたのか」というワークショップにしました。これは、ある日学校に来なくなってしまったベトナム難民の子どもビンくんをめぐって、先生が周囲の人々に話を聞いて回り、それを元にどこから解決していくかを話し合う、というものです。
僕としては、当然そうした事例がたくさんあるだろうから、それを出してもらって話し合うきっかけとしたい、と思っていたのですが・・・。
ワークショップとしてはそれなりにいいものになったとは思います。でも、参加した教員たちの話を聞いていて、僕が思い描いていたのとは少し違う実態が見えてきました。
それは、教員たちが、生徒の出自やら国籍やらの問題に、あまり踏み込んでいない、ということです。
ビンくんのような生徒が必ずしもマイノリティではないという事情は大きいと思いますが、教員は、結果として出てくる生徒たちの無気力、あるいは問題行動というものに対処しようとしているだけで、その底にあるものにはあまり関わっていない。
ある教員は、「アイデンティティの問題などを持っている生徒は深く考えている生徒だが、多くの生徒はそれ以前の状況」という趣旨のことを発言しました。
それは多分そうなのだろうと思います。自分は「なに人」なのだ、という問いは簡単に出てくる問いではありません。
ただ、無気力だったり問題行動があったりという生徒の底に、その、まだ自分で分かっていないアイデンティティの問題があると思うのですが、そこまで踏み込んでいない。
生徒や家族のプライバシーに入り込んではいけない、というのが今の多くの教員のスタンスです。
また、国籍や人種といった問題は、教師には入り込めない深い闇、という認識もあります。
でも、少なくとも国籍問題に関しては、実は簡単に入り込める、闇でも何でもない「個性」なのです。
以前、川崎ふれあい館のKさんと話していて意気投合したことがありました。それは、「国籍は隠すべき個人情報などではない」ということです。
国籍は、うかつに聞いてはいけない、公表してはいけない情報としてしばしば扱われるのだけれど、そんなものではない。人の顔と同じような、その人の当然の基礎情報で、相手を理解しようとすれば必然的に聞いていいものです。
僕の経験では、「お母さんフィリピン人なんだって?」と聞かれていやがる生徒はいません。喜んでいろいろと話してくれます。もしもいやがる生徒がいたとしたら、それこそが解決するべき大問題でしょう。
人種ジョークが言えるのは、そこにこだわっていない証拠、という了解がアメリカにはあります。
日本ではまだ、そういう状況にはほど遠い、というのが印象でした。