アメリカの教育改革2
今週号のTIMEが、前々回書いたワシントンDCの教育長ミシェル・リーについて、7ページにわたって特集している。彼女の生い立ちや、オハイオ州出身のコリアン・アメリカンの彼女がなぜ37歳という若さにしてブラックがマジョリティのこの地で教育庁に選ばれたのかなど、さまざまな角度から分析している。
とにかくタフなレディだ。特に教員や校長には厳しい。
2007年6月に就任してから1年数ヶ月の間に、144の公立学校のうち15校を閉鎖し、270人の教員をクビにし、36人の校長を異動させた。教員組合や、地域の保護者からの抗議には耳も貸さない。
これらはすべて、教育の質を上げるための改革なのだという。
しかし、この改革は、うまくいかないだろう。数年で頓挫する、と僕は思う。
なぜか。
どういう教員がいいのか、どういう教員がだめなのか、いろいろな試みはなされているけれど、実は今もって、きちんと計る方法はできていない。そもそも「教育」の目的そのものについて、社会の中でコンセンサスが必ずしもとれていない。
それを、ミシェル・リーという一人の教育長の判断で評価し、決定している。これは民主主義とは相容れない。早晩独善的な価値判断に陥るだろう。しばらくは拍手喝采する人々もいるだろうが、そうした独裁主義が成り立たないのは歴史が教えるところだ。
生徒のテスト点数によって教員を評価するのは簡単だ。実際、このワシントンDCでは、生徒の学力が非常に低いことが問題とされている。
しかしながら、テストの点数を上げることと人間的な成長は、必ずしもイコールにはならない。
たとえば座って話を聞くことのできなかった小学生が、落ち着いて1時間座っていられるようになったとしても、それ自体は点数には反映されない。
長い間分数の足し算ができなかった高校生がようやくできるようになったとしても、一斉のアチーブメントテストでは点数には反映されない。
毎日地道にそうした生徒に接して、根気よく教えてきた教員の努力がテストの点数に表れなくても、だからといってその教員がだめということにはならない。その教員に、クビの恐怖をちらつかせ、テストの点数をあげることを評価のものさしにしたとしたら、それはむしろ、教育の質の低下を意味するだろう。
教員の精神的な報酬は、日々の生徒との関わりの中から与えられる。教員にもっとも必要なのは、金銭的なインセンティブでも、クビの恐怖でもない。教員の仕事のボランタリーな部分を支える制度なのだ。そうした中で大量の馘首をちらつかせれば、教員のモラールが低下するばかりで、肝心の教育の中身は改善されない。
教師の日々は、生徒と目が合ったときの笑顔とか、物問いたげな表情をすくい上げて声をかけることとか、様子がおかしい生徒への声かけとかという点数にはできないたくさんのことで占められている。
そうしたことを無視した評価―馘首では、教育改革はできない。
そもそも、いい先生として人々が思い出すのは、どういう先生だろう。
人格的に優れ、教え方がうまく、尊敬できる先生。それはもちろんいい先生だろうけれど、必ずしもそれだけではないはずだ。
すきだらけで、失敗も多く、生徒と一緒になって首をかしげている先生というのもまた、魅力的でいい先生である場合がある。
さらに言えば、どうにも問題があるし、頼りないところもあるけれどいい先生というのもいるだろう。
教育というのは、社会の中で勝ち残る力をつけることではないし、よりたくさんの知識をつけさせることでもない。
いずれ日本にも紹介され、喧伝されるであろうワシントンDCの教育改革は、まちがった改革だ。
ネオリベラリズム経済と同様の、人間性の根本を無視した、人々を競争と格差に導く改革でしかない。