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2008年12月27日

人という字は・・・

 「人という字は、人と人とが支え合っている姿を表しています。人は一人では生きていけないのです。」

 ある教員が、終業式の壇上から話しました。
 実のところ、僕はよく、この話を形式的スピーチをバカにするのに使っていたので、あーあ、と思ったのです。今更、こんなシンプルで恥ずかしい話をするなんて、と。

 ところが。
 昨日、あることで悩んでいる生徒と話していたら、「あれを聞いて少し元気になった」と言うのです。「教室で、私は人見知りで人と話せないのだけれど、もっと他の人とも話して、困ったときは頼ってみようと思う」と。


 ああ、そうだった、と思いました。
 
 素直な言葉を素直に投げかける人って、実は大事。年とってくると、それがだんだん、しにくくなってくる。

 NHKBSで四夜連続で再放送していたイギリスのドキュメンタリー「クワイアボーイズ」も、まさにそういう話でした。生徒も他の教員も恥ずかしがり、半分バカにする中で、合唱団を組織していく指揮者の話です。
 その方法は、組織論でもないし、テクニックでもない。
 結局、その若い講師の先生の情熱だけでした。それも、情熱的な話し方ということではなくて、ただただ、自分の信念に従って人をひっぱること。
 そもそもなんで合唱団つくりをしているのか、バックグラウンドは他にありそうだったけれど、そんなこととは関係なく、情熱をもって地道に話しかけ、行動していく、その姿は人を感動させるものがありました。

 きちんと観ていないのだけれど、同じくNHKドラマの「フルスイング」も、またそういう、ストレートな情熱の話だったのだと思う。

 素直に、情熱を持って、若い人に話しかけること。
 きっと、やるべきなんだろうな。
 新春に楽しみにしている、チェ・ゲバラの映画も、そういうことかな。

2008年12月16日

お金より大切なもの

 「分からない。お金より大切なものって、なんなんですか?」
 『やまとなでしこ』の主人公・神野桜子が繰り返し言う。
 
 世界は今、その答を探しているところだ。


 お金が一番大切、というのが資本主義。お金を儲けることを目的にかかげて活動する。お金が稼げることが正しいこと。その価値の源泉ははっきりしている。
それが破綻してきている。好況と恐慌は、避けて通れないものだけれど、そしてそのためにセーフティネットつきの資本主義を人間は組み立ててきたはずなのだけれど、それが今の状態だ。

 会社って、なんのためにあるのだろう?
 次々に人をクビにしていく会社は、組織が残ることを最大の使命としている。金を中心として、組織が残り、人は消えていく。

 資本主義は、明らかに破綻している。 

 資本主義の本質はギャンブルだ。これは森巣博の言葉だけれど、今ほどこれが分かりやすい時期はない。多くの人がこのギャンブルで失敗して、沈んでいく。

 では、お金より大切なものとはなにか?

 自由だー、と叫んだのは60年代のヒッピーたち。犬井ヒロシも言ってるけど。
 生活の質、というのはアマルティア・セン。
 生活の充足感、というのはブータン王妃。
 愛、と口に出しては言わないけれど、中原欧介(神野桜子に振り回される青年)。
 友愛と連帯感、というのが連帯経済。
 
 ひとつのノー、たくさんのイエス。
 答はいろいろとある。
 たくさんの場所で、たくさんの答を探して、社会は動き出している。
 そうでないと、この世界はうまくいかない、と、多くの人が気づきだしているから。

2008年12月09日

「正しい社会」なんていやだ(アメリカの教育改革3)

  「大切なのは、建前では割り切れない問題があると知ることではないか。一筋縄でいくはずのない正邪、勝敗、損得などを二者択一式に判断する風潮が広がる。多数派の価値観に合わないと、規格外として排除する傾向も強まる。情理の理が協調され、情の影は薄れる。世の中がぎくしゃくしていると嘆く人が目立つのも、無理からぬ話だ。」

 12/8の毎日新聞社説だ。愛知の高校が寮に喫煙室を造っていたというニュースに関する記事だけれど(そのニュースの中身はここでは措いておいて)、今、多くの人が息苦しさを感じているのはこの「正しさ」の論理なのだ。
 
 ***

 人間は必ずしもいつも正しいわけではない。自分でも正しくないと思いながら行動してしまうこともあるし(僕だけ?いやいや、そんなはずは?)、自分では正しいと思ってやっても、社会的には正しくない行動というのもある。
 
 そうした「正しくなさ」を規格外として排除する論理。それが風潮だとしたら、おそろしい。それが社会のシステムとなったら、それは管理社会と呼ばれる。

 誰かが常に「正しい」方向に管理する。その「誰か」が個人であれば、それは独裁主義だし、それをシステム化すれば官僚制超管理社会になる。

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 孔子は2500年前、

「みちびくに政を以てし、これをととのふるに刑を以てすれば、民免れて恥ずるなし。これを道くに徳を以てし、これを斉ふるに礼を以てすれば、恥づる有りて且ついたる」

 と言った。(「論語」)

 政治と刑罰で人々を動かしたら、人々は自分で判断しなくなる。徳と礼でやれば、自分で動くようになる、ということだ。この「徳」と「礼」はむずかしいところだけれど、人に意見しようとする者自らの真心と礼儀、と解釈すればいいと僕は思う。

 
 落語「百年目」では、遊びが見つかって恥じ入る番頭に、店の旦那が諭して言う。

 「番頭さん、あのね、遊びをね、隠してやることはありませんよ。ね?遊びというものをね、遊んでその味を自分の体に付けて、表に出してもらいたい。(略)そして小言も言いすぎると奉公人がいじけてしまうから、お前さんが逆に円みを帯びて帳場に座って、ニコニコ笑いながら言うべきことは言っていれば、それだけに力のある人だから周りはみんな言うことききます。動きますよ。」(「志ん朝の落語」・ちくま文庫)

 ***
 
 正しさ、を押しつける社会は息苦しい。
 正しさだけを前面に出した教育もまた、息苦しい。

 正しさを唯一の尺度にした社会に、してはならない。


 なんの話をしているかって?
 前回書いた、ミシェル・リーの教育改革の方法を、批判しているのです。
 

2008年12月04日

アメリカの教育改革2

 今週号のTIMEが、前々回書いたワシントンDCの教育長ミシェル・リーについて、7ページにわたって特集している。彼女の生い立ちや、オハイオ州出身のコリアン・アメリカンの彼女がなぜ37歳という若さにしてブラックがマジョリティのこの地で教育庁に選ばれたのかなど、さまざまな角度から分析している。

 とにかくタフなレディだ。特に教員や校長には厳しい。
 2007年6月に就任してから1年数ヶ月の間に、144の公立学校のうち15校を閉鎖し、270人の教員をクビにし、36人の校長を異動させた。教員組合や、地域の保護者からの抗議には耳も貸さない。
 これらはすべて、教育の質を上げるための改革なのだという。

 しかし、この改革は、うまくいかないだろう。数年で頓挫する、と僕は思う。
  
 なぜか。

 
 どういう教員がいいのか、どういう教員がだめなのか、いろいろな試みはなされているけれど、実は今もって、きちんと計る方法はできていない。そもそも「教育」の目的そのものについて、社会の中でコンセンサスが必ずしもとれていない。
 それを、ミシェル・リーという一人の教育長の判断で評価し、決定している。これは民主主義とは相容れない。早晩独善的な価値判断に陥るだろう。しばらくは拍手喝采する人々もいるだろうが、そうした独裁主義が成り立たないのは歴史が教えるところだ。

 生徒のテスト点数によって教員を評価するのは簡単だ。実際、このワシントンDCでは、生徒の学力が非常に低いことが問題とされている。
 しかしながら、テストの点数を上げることと人間的な成長は、必ずしもイコールにはならない。
 
 たとえば座って話を聞くことのできなかった小学生が、落ち着いて1時間座っていられるようになったとしても、それ自体は点数には反映されない。

 長い間分数の足し算ができなかった高校生がようやくできるようになったとしても、一斉のアチーブメントテストでは点数には反映されない。

 毎日地道にそうした生徒に接して、根気よく教えてきた教員の努力がテストの点数に表れなくても、だからといってその教員がだめということにはならない。その教員に、クビの恐怖をちらつかせ、テストの点数をあげることを評価のものさしにしたとしたら、それはむしろ、教育の質の低下を意味するだろう。


 教員の精神的な報酬は、日々の生徒との関わりの中から与えられる。教員にもっとも必要なのは、金銭的なインセンティブでも、クビの恐怖でもない。教員の仕事のボランタリーな部分を支える制度なのだ。そうした中で大量の馘首をちらつかせれば、教員のモラールが低下するばかりで、肝心の教育の中身は改善されない。

 教師の日々は、生徒と目が合ったときの笑顔とか、物問いたげな表情をすくい上げて声をかけることとか、様子がおかしい生徒への声かけとかという点数にはできないたくさんのことで占められている。
 そうしたことを無視した評価―馘首では、教育改革はできない。

 そもそも、いい先生として人々が思い出すのは、どういう先生だろう。
 人格的に優れ、教え方がうまく、尊敬できる先生。それはもちろんいい先生だろうけれど、必ずしもそれだけではないはずだ。
 すきだらけで、失敗も多く、生徒と一緒になって首をかしげている先生というのもまた、魅力的でいい先生である場合がある。
 さらに言えば、どうにも問題があるし、頼りないところもあるけれどいい先生というのもいるだろう。
 
 教育というのは、社会の中で勝ち残る力をつけることではないし、よりたくさんの知識をつけさせることでもない。

 いずれ日本にも紹介され、喧伝されるであろうワシントンDCの教育改革は、まちがった改革だ。
 ネオリベラリズム経済と同様の、人間性の根本を無視した、人々を競争と格差に導く改革でしかない。

2008年12月01日

定額給付金は開発学的に愚策

 一定の予算を使って、ある地域の人々を支援したい。どうするのがいいか。開発援助の基本問題だ。

 簡単なのは、地域の人々みんなに現金をばらまく方法だ。
 人々はとりあえず喜ぶ。
 食べるものにもこと欠いていた人たちは、とりあえず食べられる。寒さに震えていた人たちは、着る物が買える。
 賢い、余裕のある一部の人たちは貯金するだろう。
 しかし、それで終わりだ。そのお金がなくなったら、あとは待っても助けはこない。
  開発援助としては最低の方法だ。
 
 そんなバカなことにならないようにさまざまな事例や研究を積み重ねてきたのが開発学だった。
 たとえば、参加型開発。たとえば住民組織化。たとえばマイクロファイナンス。教育や保健衛生に重点的に配分することも考えられる。人々の福祉に届くように、しかもなるべく、それがさまざまな波及効果を及ぼして、持続的な支援となるように。


 定額給付金2兆円は、それが発案された8月から、経済状況が急展開し過ぎたという事情はある。当初の生活支援という目的が、景気刺激策にすり替わってしまったのも、それなりに理解はできる。
 それにしても稚拙な方法であることは否めない。しかも、これは開発援助とも違って、外から来る資金ではなく、元々地域内の資金なのだ。

 税の本質的な役割は、所得の再分配だ。それを一律に分配してみたところで、真の公平な再分配にはならない。かといって、生活支援目的で使われるものが大半となれば、景気刺激策にもならない。

 これについて、公明党はニュースで面白いことを書いていた。
 日本総研の調査部長の話として、「2兆円は、ほぼ全額が消費に回り、GDPを0.4%押し上げる効果はあるだろう」という。

http://www.komei.or.jp/news/2008/1114/13004.html

 国民から集めた金を市場に流せば、その分のGDPが上がる。当然のことだし、2兆円なら確かにGDPの0.4%だ。これは、その2兆円がなんらの経済波及効果を及ぼさない、と自ら語っているに過ぎない。
 しかも、「ほぼ全額が消費に回る」という推測の根拠もない。一定額が貯金に回ると考える方が自然だ。

 2兆円のばらまきは、開発学の視点から見て、景気刺激策としても、生活支援策としても、なんの工夫もない愚策だ。