『カシオペアの丘で』重松清
三十代半ばまで、僕は文学を支えに生きてきた。自分のすべてのことは、いずれ文学につながる、と思っていた。文学こそが、世界のすべてを表現する、と思っていた。ちょっと恥ずかしい思い込み。
なんだか違う、と思うようになったのは、文学そのものの衰退にも関係があるとは思う。文学部フランス文学科出身の僕が「文学」と思っていたもの自体が、世の中で衰退していると思うようになったのは、90年代に入った頃。長編小説が売れない、といわれるようになったのと、同じ時期・・・かな。
敬愛する大江健三郎がノーベル賞を取った頃、本屋に行っても大江の小説がない。大江自身が、自分の言葉が人々に届かない、というようなエッセイを書いていたけれども、文学が世界を表せるという、多分に誤解の時代だったのかもしれない。
そしてもうひとつが、草の根援助運動に本格的に関わるようになってきたこと。文学が扱おうとしているようなものが吹き飛んでしまう、大きなものを見てしまったこと。
サルトルは、「飢えて死ぬ子の前では文学は無力だ」という趣旨のことを書いて、文学から遠ざかった。文学者として、文化人としてその態度が正しかったようにはあまり思えないのだけれど、意識としてはとても理解できてしまう。世界の暴力性、人権の軽視状況、そんなものを考えてしまうと、文学の扱っているものがどうでもよく見えてくる。
『カシオペアの丘で』で扱われているのは、主人公たちのそれぞれの悔いと赦しの物語だ。主人公の一人・俊介が末期がんになり、故郷の人々と会う、そのそれぞれの物語。それぞれが背負ったものの重さと大きさは、十分に大きく苦しい。それがこの文学を成り立たせる。
そして、重松清のこれでもか、これでもかと思いを深めていく力はすごいと思う。僕はとてもじゃないが、こんなに人の思いに付き合いきれない。どうも相当に飽きっぽいらしい自分の性格もあいまって、重い「思い」に長いこと関わっていくのは苦手だ。
僕ならば、この主人公たちの誰であっても、物語の半分ぐらいで降りてしまっている、ように思う。
それを粘り強く、爆発する直前のところまで持ち上げながらキープし続ける重松の力はすごい。これは筆の力というよりは、心の力なのだろう。そこまで徹底して付き合おうとする心の力。
例えば悲しい目にあっている川原さんにぎりぎりまで踏み込んで手を差し伸べる、雄司のエネルギー。僕にはない。
そして、多くの今の日本人にも、ないのじゃないかな。
そして、その関わり方、それぞれの人がそれぞれの思いと向き合い、他の人に関わっていくそのあり方が、あまりにも幸せすぎる、と僕は感じてしまう。こんな風に人が関わっていけるのならば、人間はまだ幸せだ。
人はもっと、無関心だ。
人はもっと、自分のことだけで、あとはどうでもいいと思っている。
そんなことないのかなぁ。
僕自身が、僕さえがまんすればいいのだから、という気持ちを持つようになったのは、ある程度の歳になってからだ。それは、夢から醒めたような気持ちでもあった。
人が死ぬことさえ、日々の生活の中では風化していく。人の死の悲しみを呑み込んでしまう経済とか、暴力とか、日々の苦しさとか、そんなものの前では、心のありようなんて、なんにもなりゃしない、という感覚があるのだけれど、それはペシミスティック過ぎるのだろうか。
・・・多分、続く。