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公権力に依存するということ

 落語『黄金餅』は、見舞っていた金山寺味噌屋の金兵衛の目の前で長屋の住人・西念が死んでしまうところから始まる。
 「お、おぃ!しっかりろよ、西念さん!・・・いけねぇ、くたばっちまった。」
 その弔いについて金兵衛に相談された大家は、「本来なら大家がやるところだが、お前が頼まれたんならやってやってくれ」と金兵衛に頼む。ある理由からそれを待っていた金兵衛はそこで、長屋の連中と一緒に、西念を漬物桶に詰めて寺へ運ぶ。貧乏寺でわけの分からないお経をあげてもらったあと、焼き場へ運ぶのも金兵衛、骨壷に入れられた遺骨を寺に運ぶのも本来は(『黄金餅』ではそれをやらないのだが)金兵衛の役目になっている。
 
 実は西念が死ぬ前に、持っていたお金を餅に挟んで呑み込んでいた・・・というのがこの話の面白いところなのだけれど、それは置いておいて、僕にはこの「死」の身近さが面白い。

 「死ぬとこんなになっちまうのかなぁ、いい人だったのに、なむあみだぶ、なむあみだぶ」と大家さんは言う。その一方でおかみさんは線香と供え物を買いに走り、長屋の連中は次々に現れて線香をあげていく。

 ここにあるのは、今生きている人たちによる、亡くなった人への当然の見送りの一部始終だ。此岸にいる人が彼岸に渡ってしまう。それを見送り、あとの始末をつけるのは、此岸に残っている人たちの仕事だ。

 ところが、現代ではそうなっていない。彼岸に移ったとたん、その面倒は、医者・看護師・葬儀社の人・火葬場の担当の人の手に移る。子どもであっても夫や妻であっても、勝手に触ることはできないところへ行ってしまう。いや、実はできるのだけれど、できない、と感じてしまう。
 此岸と彼岸を分けるものは、単なる場所の違いではなく、「公的なもの」なのだ。

 こうした「公的なもの」はどこにでも入り込んでいる。
 たとえば教育。自分の子どもであっても、教育権そのものは国に取り上げられている。自宅で主に親から学ぶ「ホームスクール」を受けている子どもはアメリカではすでに200万人いるそうだが、日本では親が就学義務を怠っているとみなされる。
 誰かに暴力的な行為を受けた場合もそうだ。それに対する報復は、自分の手で行ってはならなず、公権力に頼るしかない。それが現代のルールだ。

 フィリピンの海で、禁漁区を守る活動をするグループを「バンタイ・ダガット(海の番人)」という。こうしたグループはしばしば、敵対的な漁師たちから攻撃されたりする。そのために許可を得て武装して臨むこともある。
 本来は警察なり沿岸警備隊の仕事だ。なのに、なぜ?
 一つの理由は、警察では手が足りないから、というものだが、もっと本質的な理由がある。
 「警察は、自分たちの海じゃないから、真剣に取り締まってはくれない。賄賂でも出されれば簡単に釈放してしまうし、役に立たない。自分たちの海は、自分たちで守るしかないんだ。」
 あるバンタイ・ダガットのメンバーに聞いた言葉だ。

 「公的なもの」に守られ、その分誕生から死までさまざまな制約を受ける社会。人間が文化として積み上げてきた、安心の社会だ。その一方で、すべてを自分たちでやる社会に対する憧れのようなものも、僕にはある。
 自分のことだから、自分でやる。その潔さと強さも好きだ。

 どこまで自分の生と死を自分に取り戻せるか。それも生きる価値の大事なポイントのような気がする。

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