国民総幸福は国民総充足ということらしい
外務省が国民総幸福(GNH)をタイトルとしたシンポジウムを開いたのは2005年。ブータンが理念としていると言われるGNHが一躍脚光を浴びた年だった。
はじめてGNHという言葉を聞いた人の誰もが思うのが、幸福というあいまいなものを、どうやって指標にするのだろう、ということ。その答があるのかと思った外務省のシンポジウムでも、指標化の話はごく軽く触れられただけで、ブータンの暮らしぶりの紹介が主になっていた。
指標に近いものは、国連開発計画の人間開発指数や、レイチェスター大学の世界幸福地図などいろいろと考えられている。しかし、『ブータンに魅せられて』今枝由郎2008・岩波新書によれば、もともとGNHというのは、そうした指標化を意図したものではないらしい。今枝は、ブータン国王に謁見した折に聞いたこととして、次のように書いている。
「仏教国としては、経済発展が究極目標でないことは、経済基盤が必須であることと同様、自明のことである。そこで仏教国の究極目的として掲げたもの、それが「国民総幸福」である。」
「私が意図したことは、むしろ「充足」(contenendness)である。それは、ある目標に向かって努力する時、そしてそれが達成された時に、誰もが感じることである。この充足感を持てることが、人間にとってもっとも大切なことである。」
これでは、指標化することはできないだろう。例えば物を所有することが幸福なのではなく、目標の達成こそが幸福、というのは理念的には受け入れられても、社会の目標とすることはむずかしいと感じられる。
僕はフィリピンの漁村と「オルタナティブな開発」を研究する中で、一時この人々の充足感のようなものを調べようとして、挫折した。
忙しいが心を失いつつある僕らと、経済的には貧しいがのんびりしたフィリピンの漁村の生活を比べると「フィリピンの方がいい」という漠然とした気分を仮説として考えていたのだが、数値化もできず、論文として成り立たない。これはやはり、一種の哲学になるからだ。
でも、そういう社会がもう一度どこかに出現するかもしれない、という淡い期待はある。ありえない?・・・そうかもしれないけれど。ブータンは、どうなるのかな・・。