「自由のための戦い」ライラの冒険
「自由と平等、どっちか選ぶとしたらどっちがいい?」
高校生に聞くと、当然半々ぐらいになるだろうという予想は外れて、かなりの割合で「自由」という答が返ってくる。高校生にとって自由というのはかなり強い価値らしいのだが、一体なぜだろう。
その答のひとつが、こうしたメディアによる刷り込みなのだろう、映画を観ながらそう思った。
自由のための戦い。映画「ライラの冒険・黄金の羅針盤」の主要なテーマのひとつがそれだ。教権と訳されるThe Magisteriumという組織が子どもたちの自由意志を剥奪しようとしていることに気付いた主人公は、「戦争よ!」と叫んで「The fight for the freedom」に身を投じる。
数年前、アメリカ映画は静かになった。戦争にうんざりして、戦いの映画がぐっと減った。でもそれは一時だったらしい。もう、アメリカ映画は戦いばかり。戦うのが、好きなんだなぁ。
日本語ではよく分からないが、敵である「教権」The Magisteriumという語は、英語ではローマ法王庁の権威を表す言葉で、宗教そのものだ。「黄金の羅針盤」の世界はこの世界のパラレルワールドということになっているので、ほとんどローマ法王庁そのものと考えていいのだろう。その、宗教的な精神の抑圧と戦う、自由の戦士、ライラとその仲間たち。かっこいいし、ファンタジーとしてとても魅力的だけれど、その構図は「イスラムのテロリズムと戦うアメリカ」と同じだ。
映画の中で、たくさんの者たちが殺されていく。しかし、その殺される者たちの痛みは映画にはない。「教権」に雇われているらしい戦士集団も次々に殺されていくけれど、それは仕方ないことらしい。
主人公の側も、死んでいく者たちがいる。でも、それはとりたてて取り上げられることはない。自由のために死んでいくのだから仕方がないことなのだろう。
そもそも「自由のために死んでいく」って、相当おかしくないだろうか?
「健康のためなら死んでもいい」というジョークがあるけれど、それと大して変わらない。
世界の人々の自由のために自分が死んでいく、というロマンが被せられて納得してしまうのだけれど、実のところ、その「自由」というのは、「金持ちがより金が稼げる自由」とか、「他人の痛みは気にしなくていい自由」なのだ。
「自由」って何?と高校生に突き詰めても、ほとんどまともな答は出てこない。「勝手にすること」とか「好きなことをすること」だそうだが、それが「平等」を脅かすという意識はない。「自由」と「平等」は、そもそも対立的なのだけれど、それには気づかない。そうした現実の中で、多くの高校生たちは不平等と不自由を享受することになるのに。
「自由」ってすばらしい。そうした刷り込みが、小さいときからあちこちでなされている。それが今の不自由な「自由世界」の現実だ。
ついでに・・・本来対立的な「自由」と「平等」をつなぐものが「博愛」なのだ、とジャック・アタリは書いている。並べ立てるのが本来むずかしい2つの理想を「博愛」で結びつける、そのユートピア思想がフランス共和制の国旗になっているというわけだ。
