市民社会はどこにあるのか―映画「大いなる陰謀」―
アンソニー・ギデンズは、人々が積極的に社会的意志決定に参加し、その上で自己決定する社会を「アクティブな市民社会」としている。でも、そんな「市民」になれる人は必ずしも多くない。人々は、日々の生活に追われ、日々の娯楽に追われる。自分の社会の成り立ちや他の人々のことを考えている余裕はない。
余裕のある人たちはかつてもいた。それが「市民」だった。ローマ時代はそんな市民たちが政治を行い、それ以外の人々はその社会に棲息するだけの奴隷だったり、女性だったりした。イギリスやフランスの議会では、そうした役割を経済的には人々に養われている形の「貴族」が担った。しかし、現代の社会では、すべての人間が市民になる義務がある。それは苦しく、むずかしい。しかしそうあることでしか、真の民主主義社会は訪れない。
コミットしてみろ。市民になれ。そしてみんなで解決への道を考える以外に方法はない。そういうメッセージを真正面から、ストレートに出しているのがトム・クルーズの復帰映画でもある『大いなる陰謀』だ。6年間続いている「イラク戦争」を、どう終わらせるのか。アメリカ社会は世界にどう責任を取るのか。
ここには答はない。
監督を兼ねたロバート・レッドフォードは、リベラル寄りの政治学の教授として若者に話をしているが、そのメッセージは整理されているわけではない。トム・クルーズ演ずる共和党の若手ホープである議員は、題名のような陰謀をめぐらしているわけではなく、共和党の展開する議論をそのまま押し出している。やや疲れたジャーナリストのメリル・ストリープは、メディアとして戦争の片棒をかついでしまった責任感と、大メディアとしての商業主義の間で、真摯なジャーナリストとして振舞うために苦しんでいる、そのアメリカのジャーナリズムの現状を体現している。
映画としては、メッセージ以上のものがでているわけではない。傑作とは作者の意図以上のものがかもし出されている作品だとしたら、この映画は凡作だ。3つの場面だけで成り立つ地味な演劇でしかない。喜ぶべきなのは、これがアメリカのハリウッド映画として製作されていることだろう。アメリカ映画界は、まだこんな良心を持っているのだ。
ところで、この映画を観ようと誘ってくれたのは、今年高校1年になった娘。先日「ライラの冒険」を観にいったのもこの娘とです。午前中はメーデーの出店ボランティアをしてくれました。いつまで親父とデートしてくれるのかな。